1.2 第二のメッセージ(神代紀上第六段)

ヒミコをアマテラスに仮託した『書紀』であるが、なぜか間髪を置かず、アマテラスを三女神に変身させている。その意図は追々あきらかになるであろう。

 ヒミコのまたの名として『書紀』上に示されたアマテラスであるが、誕生早々、スサノオとのウケイ(豆知識)なる行為によって、巧妙にその姿をかえられている。

 父母(ナギ、ナミ二神)から天上界を去ることを命じられたスサノオは最後の暇乞(いとまご)いにと姉アマテラスのもとを訪れた際、アマテラスから来訪の理由を厳しく問責される。スサノオは自分には邪心なぞなく、ただ暇乞いにきただけであると主張するも、アマテラスから邪心なき心を証明せよと責められる。
 スサノオはウケイによってそれを証明しようとして、「これから自分が生む子が男であれば邪心なきことの証(あかし)」と一方的に宣言。そのときなぜか、ウケイなど不要なはず のアマテラスがスサノオに先立ってウケイもどきを実施する。すなわち、スサノオの所持品(剣)を乞い取り、それを噛み砕いて霧状に吐き出すと、女(三女神)が誕生したと話は進む。続いて、 スサノオがアマテラスの所持品(玉)を乞い取って本来のウケイをおこなうと、誕生したのはウケイにかなう男(五男神)であった。ここに、スサノオの邪心なき心が証明されたと思いきや、さにあらず。
 あろうことかアマテラスはウケイもどきで生んだ自身の三女神を、スサノオが本来のウケイで生んだ五男神との交換を要求。そのわけは、「三女神はあなたの所持品から誕生した子だからあなたの子。あなたの五男神は 私の所持品から誕生した子だから私の子」と、なんとも不可解な主張を展開する。が、結局、『書紀』はその結末を告げることもなく物語りは展開していくのであるが、ここにはいくつもの不審点がある。
 そもそもウケイにおいて子を生む必要なぞ全くなかったアマテラスが子を生んだとしていること。ウケイはスサノオの心が清き心であることの証(あかし)を占うためのもので、 アマテラスはそれを見守るだけでよかったはず。それをなぜ、スサノオに先立ち子を生んで、その上、生んだ子を、その後に生まれたスサノオの子と交換する必要があるのか、全く不可解。
 加えて、男性たるスサノオが子を生むとは何事か。アマテラスから受け取った玉を噛んで吐き出した細(こま)かい霧から誕生したというのは一体全体、何を意味するのか。 これを、スサノオとアマテラスとの結婚の比喩とみなす考えもあるようだが、そんな単純な話ではないはず。なぜなら、次段において、スサノオが自分の身に着けていた玉を噛み砕いて五男をもうけたとする 不思議な異伝(七段一書③)が示されているからだ。ここには、スサノオが独り身ながら五男をもうけたこと、すなわちスサノオと五男との強い結びつきが、確定的に示されている。
 だいたいが、アマテラスとスサノオとは同父母ナギ、ナミの子であるので、二人があたかも結婚して五男三女を生んだかとするようなストーリーは当時も今も結婚の風習としてはありえない。当時、隣国の中国・朝鮮 では同姓というだけで結婚が禁止されていたぐらいだから。
 これらのうち続く不審点に自問自答しながら、私の思考は『書紀』の撰者に誘導されるかのごとくある結論に帰結していく。すなわち、この五男はスサノオの子でもアマテラスの子でもない。 スサノオが自らの口から息吹のごとく吐き出した五男とは彼自身の分身を暗示しているに違いない、と。
 もう一度『書紀』をじっくり見直すと、スサノオが最初に生んだ子の名は、「正哉(まさか)吾勝(あかつ)勝速日 (かちはやひ)天忍穂耳(あまのおしほみみの)尊(みこと)」とあって、 「正哉(まさか)吾勝(あかつ)(まさに吾が勝った)」+「勝速日天忍穂耳」の形になっており、ウケイに勝った当人(スサノオ)が自らの名を 告げているさまそのものなのである。よって、そう叫んだ天忍穂耳とはスサノオ自身とみなすべきで、誕生してきた子の叫びとするのは、赤子が言葉をしゃべるという不合理に、 誕生前の出来事を知ろうはずがない子が勝利宣言したという不合理が重なっており、不適切極まりない。
 しからば、スサノオが生んだという天忍穂耳(あまのおしほみみ)(以下、オシホミミ)に続く天穂日(あまのほひ)、 天津彦根(あまつひこね)、活津彦根(いくつひこね)、熊野櫲樟日(くまのくすひ)の計五男神は共 にスサノオの分身と解すべきほかはない。最初の子だけがスサノオ本人で、次男以下は子とみなすのはいかにも不合理だから。ここに、スサノオが口から吐き出したとする五男全員がスサノオの異名同体であるとする仮説が導かれる。今これをスサノオ=五男仮説と名付けよう。
 この仮説は、アマテラスが生んだ田心(たこり)姫、瑞津(たぎつ)姫、 市杵島(いちきしま)姫の三女神にも当然適用されるべきで、ここにアマテラスと三女神とは異名同体ということになる(実は本来一神で宇佐神宮には 比売[(ひめ]大神として祀られていることも追々わかってくる)。これをアマテラス=三女神仮説とすれば、この仮説はスサノオ=五男仮説と表裏一体であって、 両者不可分であることはいうまでもない。

 

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