3章 出雲で覇権を築いた大己貴

3.1 大己貴、出雲に出現
 記紀では国造りの神と称えられる大己貴。が、その国造りの様子はそこには描かれていない。一方、『出雲国風土記』や神社伝承では次節で詳述するようにそれぞれ二十箇所以上に足跡が記されており、 大己貴の活動基盤が出雲国であったことは間違いなさそうだ。
 ところで、これまでの神社伝承学の先駆者、原田常治の『古代日本正史』やその継承者小椋一葉氏の『消された覇王』によれば、出雲をまとめたのはスサノオの子の大年(おおとし)であって、その大年が 九州に遠征、征服し、次いで近畿の播磨に進出。そこで名を饒速日(にぎはやひ)と改名した上でヤマト入りし、天皇家の外戚として君臨したというような論が展開されている。仮に、そのような論が成り立つ のであれば、まず、出雲国において大年が覇権を築いたそれなりの足跡があってよいはずが、出雲には大年の足跡は後述のようにわずか一箇所しか見つからない。それに反して、原田や小椋氏がスサノオの婿養子と して、さほど影響力もなかったと推定した大己貴は出雲のいたるところで活躍した足跡が見いだせる。その中で、出雲国における大己貴の実態を徐々に明らかにしていきたい。どうやら彼らの推論は正す必要がある ようだ。大年や饒速日と大己貴との関係、及びスサノオと大己貴との関係は追々見ていくとして、まず彼の幼名から検討していこう。

●大己貴の幼名とその変化
 大己貴は大穴持とか大名持とも表記され、「大きい土地の持ち主」とか「たくさんの名の持ち主」ぐらいの意味だから、少なくとも幼少時の名ではないはずだ。それは大己貴の異称大国主や大物主にしても 同様で、いずれも功成り名遂げて以降の呼称であることは間違いあるまい。
 では、大己貴の幼少時の名は何であったのか。その手がかりらしきものが、旧事本紀の巻四「地祇本紀(ちぎほんぎ)」にある。それは大己貴の別称として示されている清(すが)ノ湯山主(ゆやまぬし)三名(みな) 狭漏彦八嶋篠(やしましの)だ。この名は三つからなり、冒頭の「清ノ湯山主」は生誕地の地名、脚の「八嶋篠」は八嶋(日本列島)のシ(神聖な)ノ(頭首)で、成人後の大国主を表している。で、胴部の 「三名(みな)狭漏彦」こそが、幼名の御名(みな)ではなかろうか。
 ここで問題は狭漏彦の読みであるが漢音では「さろひこ」、呉音では「さるひこ」である。現段階では決定的なことはいえないが、「狭漏彦」が「さるひこ」で、かつそれが、大己貴の幼名であったならば、 後年大己貴が「猿田彦(さるたひこ)」と呼ばれた可能性は限りなく高いといってよかろう。その可能性については5章5.3節(●五ヶ瀬川の下流延岡市(C)に残る大己貴の足跡)でも考証するとして、それがいかなる名 であったにせよ、その幼名は彼の成長と共に実態に即した大国主や大己貴(大名持ち)へと変化していったものと思われる。
 以下、出雲国における大己貴の覇権拡大の様子を『出雲国風土記』と神社伝承を中心に見ていくとしよう

●なぜか大己貴伝承に多弁な『出雲国風土記』
 神社伝承が生き生きと伝えていたスサノオ本来の伝承は『出雲国風土記』ではすっぽり削られていたし、『書紀』では人身御供(ひとみごくう)の娘を呑みこむヤマタノオロチ退治と救出した娘 との結婚譚(たん)に単純化されていた(詳細は別稿のHP[建国の祖神スサノオの原像)。
 ところで、大己貴の方はどうだろう。まず『書紀』はというと、国づくりをなした神と称(たた)えながら、その内容は極めてそっけない。八段本文ではスサノオと稲田姫とが結婚して誕生した のが大己貴であると語るのみで事績の紹介は一切ない。ようやくその一書⑥に至って、いくつかの異名(大国主神や大物主神、あるいは国作大己貴他)と共に、当時の日本国中(葦原中国[あしはらのなかつくに ])を少彦名(すくなひこな)と共に巡行平定し、遂にはその主(ぬし)として天下を経営したと結果のみを記述し、その実態は全く明らかにしていない。続いて蛇足ながらという感じで、大己貴自身が自問自答形式で、自分はヤマトの大三輪(おおみわ)の神であって、神武天皇の后となったヒメタタライスズ姫の父であるという本当は極めて重要な情報を箇条書き的に紹介するのみである。
 続く神代紀下()の巻でも、大己貴はその葦原中国の主たる座を天孫に譲り渡すようにとの勧告や脅しを受けたすえ、遂には、出雲国の五十狭狭( いささ)の小汀( お はま)で譲渡に同意、最終的には隠去させられるというまことに弱々しいストーリーに仕上げている。これではとても国づくりの神としての大己貴のイメージがわいてこない。ましてや第一章で復元した倭国大乱を征した大倭王の姿にはほど遠いものがある。
 一方、『出雲国風土記』はというと、大己貴の足跡を実に二十一箇所(下図の)にも渡って示しており、これは、のちに詳細を示す神社伝承の二十九箇所()の実に72%に及んでいる。

 これは、スサノオが神社伝承二十三箇所に対し、わずか四箇所(17%)しか採用されていなのに比べ大違いである(詳細は別稿のHP[建国の祖神スサノオの原像]中の2.2 出雲国に残るスサノオの足跡概観)。なぜか。考えてみれば、『書紀』は大己貴を葦原中国の主(ぬし)とする一方で、最終的には天孫族によって征服されたとしている。ならば、大己貴の力が強ければ強いほど、それを征服した天孫族の力は相対的に強調されることになるので、中央の『書紀』編者は『出雲国風土記』の編者に対し、スサノオの記載制限とは裏腹に大己貴の偉大さを思う存分記載すべしとの勧告があったとしてもおかしくはない。
 だからであろう、『出雲国風土記』にはあちこちに大己貴の具体的な事跡が描かれている。そうはいっても、その内容は神社伝承(島根県神社庁発行の神社誌『神国島根』[千百七十二社の神社伝承]及び 『全国神社名鑑』[全国約六千社の内、島根県分百八十五社]より抽出したデータ、以下『名鑑』)にはとても及ばない。
 そこで、以下、スサノオ同様、神社伝承を主体に『出雲国風土記』も一部引用しながら、大己貴の本来の伝承を復元していくことにしよう。
 前頁に示した大己貴の神社伝承地を、スサノオのそれと比較すると以下の諸点に気付く。
 
1.スサノオの伝承は宍道湖(しんじこ)や中海(なかうみ)の南部に限定されていたが、大己貴伝承はその北部にも拡大している。
2.伝承範囲が他国との国境にまで広がっている。たとえば、伯耆国(ほうきのくに)との国境(上図のA)、備後国との国境(B)、石見(いわみ)国との国境(C)と、出雲国に隣接する三国すべてに足跡があり、大己貴の国づくりは出雲国内にとどまっていないことが暗示されている。
3.伝承の中心はスサノオ伝承と同じく斐伊川流域が主体となっている反面、熊野山を中心としたかつての意宇(おう)郡(上図のAの辺り)での伝承密度はスサノオに比べ幾分薄くなっている。
                       
 およそ以上のようなことが伝承分布図からわかるのであるが、次節以降でその詳細を分析していくが、その際注目点はなんといっても、大己貴とスサノオとが『書紀』本文にあるように実の親子であるや否やであるが、わがスサノオ=天穂日仮説では大己貴は天穂日の子天夷鳥(あまのひなとり)としても描かれている可能性もあるので、そのことも頭の片隅におきながら検討したい。
 もう一点は、大己貴が『出雲国風土記』のあちこちで、天(あめ)の下をお造りなされた大神(所造天下大神)とされているのであるが、出雲びとは一体、どういう意味でそう称したのか、その実態を探りつつ、『書紀』にもまた国作大己貴(くにつくりのおおなむち)とされた理由もあわせて考えることにしたい。
 以上を念頭に、まず、もっとも伝承密度の濃い、斐伊川(ひいがわ)流域からみていこう。

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