3章 スサノオ=五男神仮説の検証−スサノオの謎二の解

3.3 残る三男神とスサノオとの等号検証
 スサノオ分身中、題記の三男神は天津彦根(あま つ ひこ ね )、活津彦根(いく つ ひこ ね )、熊野?樟日(くすひ)であるが、いずれも伝承は皆無に近く、従って書紀にも助けを求める点、ご容赦願いたい。
 まず天津彦根とスサノオとの等号を考察するに当たってヒントになりそうなのが両者に共通する「根」というキーワードである。スサノオは神代紀上において、天界から地上へ追放されるとき、「遠く根の国に適()ね」と命令されている。この「適ね」は通常「行きなさい」と現代語訳されており、それは「適」の訓読に「ゆく」があるので間違いとはいえない。が、行きなさいを強調するのであれば書紀は「往」あるいはもっとずばりと「去」(「就」の逆で遠ざかるという意味がある)の字を用いてもよかったはずで、なぜわざわざ、あたかも根の国がスサノオに「適している」と感じ取れる字を用いたのか。そんな疑問に拍車をかけるように、命令通り出雲国に天降り、オロチを退治後、稲田姫と結婚して大己貴をもうけたスサノオに対し、神代紀は「遂に根の国に就()でましぬ」と就任の「就」で結んでいる。
 このストーリーから書紀の意図は、「スサノオはとうとう(彼の終焉の地にふさわしい)根の国に就()かれた」ということを述べようとしたのではなかったのか、とそんな気がしてならないのである。その根の国の候補としてずっと気になっていたのが近江国(滋賀県)の「彦根」であった。なぜなら、かつての近江国東部の彦根、すなわち琵琶湖の東方に拠点をもつ豪族三上( み かみ)氏族がその祖を天津彦根(天御影(あまのみかげ)とも)としていたからだ。
 スサノオ=五男神仮説の着想が固まるにつれ私のそんな思いはますます強くなっていった。すなわち、自説が正しければ、このあたりにもスサノオの足跡が絶対に見つかるはずであると。 そこで改めて『滋賀県神社誌』を調査したところ、二つの足跡が見つかった。
 一社は琵琶湖湖北にある桜椅(さくらはし)神社(長浜市高月町)に、「スサノオが 肥の川上の八俣遠呂知(やまたのおろち)を退治し給ひて、此の所の東側の阿介多(読み不明[あすけだ?])という小高い所に来臨し、剣の血を洗った御霊跡」 と伝承されている。もう一社はまさに三上氏族の勢力範囲内にある滋賀県米原市(まいばらし) 烏脇(からすわき)の神明神社に、「スサノオが伊吹山(いぶきやま) 付近の族を退治されたとき、道案内をした功により神紋が伝えられる」とある。
 三上氏族の始祖は天津彦根であるが、その三上氏族の所在地にかつてスサノオがやってきたというのだ。その上、当社の祭神は由緒中のスサノオではなくずばり天津彦根その人である。 ここにスサノオと天津彦根との強い結びつきが感じられる。
 さらにもう一つの興味深い伝承が彦根市のホームページに示されている。それによれば「彦根の地名は、むかしアマテラスの御子に天津彦根、活津彦根の二神がおられ、 このうち活津彦根が活津彦根明神として彦根山に祭られたことに由来しているとされている」とあって、ここにも彦根と天津彦根、活津彦根との結びつきが感じ取れる。
 以上、「根」というキーワードを通じて、三上氏族の始祖天津彦根、あるいは彦根山の祭神活津彦根とスサノオとの交錯(こうさく)が幾分なりと 確認できた。
 さて、スサノオ五男神仮説において、あと熊野?樟日(くすひ)が残っているが、足跡伝承や系譜伝承は見られず、恐らくこれは出雲の熊野大神の 熊野からひねりだした書紀苦心の創作と思われる。そういえば、活津彦根も天津彦根からの創作であろう。古代の聖数である三や五のうち、アマテラスを三分身としたからには、スサノオは 五分身とすべく、本来の呼称であったと思われるオシホミミ(このことは次章4.3節で論考する)以外は書紀の撰上段階、すなわち天孫族を創作する段階で色々と知恵を絞って考案したものと思われる。
 かように三男神もスサノオの分身である可能性が高まってみれば、スサノオ=五男神は成立したも同然だ。
 以上より二つ目の謎(書紀のウケイメッセージから読み取ったスサノオ=五男神仮説は成り立つのか? 成り立つとすればそこから何が言えるのか)の前半の答えは導かれたとして、続いて後半の疑問に答えたい。

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