1.5 豊玉姫の正体

 さて、話をヒコホホデミと豊玉姫に戻すと、『書紀』の海幸山幸神話では、二人が海宮(わたつみのみや)で目合(まぐあ)って生まれたのがウガヤということになっているが、海宮の伝承が色濃い対馬にはウガヤの影ははなはだ希薄で、かわりに玉依姫が豊玉姫に負けず劣らず祭祀されていた(下図中右側下の表)。豊玉姫がウガヤを産んだ産屋の古跡と伝える美津島町芦浦(よしがうら)の乙宮(おとみや)神社(⑩)でさえ、祭神にはウガヤの影も形もなく、玉依姫が祭られていた。
 すなわち伝承の主張ではヒコホホデミ・豊玉姫夫妻の子はウガヤではなく玉依姫であるように思われる。だとすれば問題は『書紀』が玉依姫を豊玉姫の妹として描いていることだ。そこで今一度、われらが羅針盤『書紀』に目を移し、そこにひそむヒコホホデミと豊玉姫の関係をあぶりだしてみることにしよう。
 確かに、神代紀下第十段海幸山幸(うみさちやまさち)神話においては、山幸彦ことヒコホホデミは豊玉姫と結ばれてウガヤが誕生、そのウガヤが母豊玉姫の妹玉依姫と結婚したとするストーリーが展開されているが、じっくり考えれば、これはなんとも不自然なストーリーであることがわかる。
 というのは、そうだとすればウガヤの妻玉依姫はウガヤより一世代年上、かつ二人は三親等での近親婚となる可能性が高いからだ。この不自然さの原因としてヒコホホデミと豊玉姫の結婚は単なる創作ということも考えられるが、ここまで対馬に二人の濃厚な伝承があったからには、それはそれで史実の反映として動かさなかったとき、全く別の要因がこの不自然さの原因として浮かんでくる。
 それは、豊玉姫と玉依姫が姉妹であるとされていることから生じるもので、仮に二人が親子であったとすれば、少なくとも系譜の世代矛盾はなくなる。そんな観点から『書紀』を見つめなおして豊玉姫の系譜を探っていくと、不思議なことに彼女の父について、本文(十段)とその一書四つの内、三つが海神(わたつみ)とし、具体的な名が示されていないのに気付く。遠慮がちに一書①のみが豊玉彦としているが、その場合は豊玉という名称を男女が親子で共有していることになる。
 ところが『書紀』をざっと見渡すと、男女が同一名称を共有するのは夫婦、あるいは兄妹等に限られているようで、だいたいが、イザナギ、イザナミからしてそうであるが、さらに夫婦としては御間城入彦(みまきいりびこ)(崇神天皇)とその皇后御間城(みまき)姫があるし、兄妹では孝元天皇の皇后ウツシコメとその兄ウツシコオ、同じく妃イカガシコメとその兄イカガシコオ、また、開化紀には、和珥臣( わ にのおみ)の祖姥津命(ははつのみこと)とその妹姥津姫(ははつひめ)等、枚挙にいとまがない。
 その一方で親子で同名というのは調べた限りでは見当たらない。この海幸山幸の神話の場合も、本文や一書の三つが父を豊玉彦とせず、海神とわざとぼかしているのは実は二人が親子ではないことを暗示しているのではなかろうか。そうであれば、豊玉姫と豊玉彦は兄妹あるいは夫婦であった可能性が浮上してこよう。
 そんな目でさらに『書紀』を注意深く追っていくと、豊玉姫については全く手がかりが得られなかったがその妹とされる玉依姫については、我々に何かを語りかけているような節がある。まず玉依姫の母は第九段一書⑦に万幡(よろずはた)姫としており、これ以外に記述は一切ない。一方、父も第十段一書①で豊玉彦としている以外に見つからない。してみれば、玉依姫は豊玉彦と万幡姫の児であると『書紀』は主張していることになるが、その万幡姫のフルネームが第九段一書①に万幡(よろずはた)豊秋津姫(とよあきつひめ)と記されている。ここに豊を含むことから、この万幡豊秋津姫が豊玉姫の異名であるとすれば、玉依姫は豊玉彦と豊玉姫との子ということになる。
 一方で、『書紀』は海幸山幸神話では豊玉姫を玉依姫の姉とする。はたして『書紀』の真意は一体どこにあるのだろう。ここで、われわれは再び神社伝承に助けを求めることにしよう。
 まず、神武が日向国からヤマトへの東征に対して最初に祭ったのはまぎれもなく大己貴(自説では父)であったことを思い起こしていただきたい(日向の都農(つの)神社や甘漬(あまづけ)神社の伝承)。その次に祭ったのが、実は豊玉姫で宮崎県高千穂町五ヶ所(ごかしょ)の祖母嶽(そぼだけ)神社に祭っている。神武は母玉依姫の手元で育てられたであろうから、その母が豊玉姫のことを姉と呼んでいたのであれば、神武は豊玉姫のことを「叔母(おば)」と認識していたはずである。
 それが豊玉姫を祖母として祭っているからには豊玉姫は玉依姫の母であった傍証になると思う。もちろん、『書紀』の表向の系譜、豊玉姫-ウガヤ-神武によれば祖母ともいいうるのでこれはさほど強く主張できない。ところが、話を対馬の伝承解析に戻すと、豊玉姫と玉依姫との関係が一層明確になるのである。
 まず、豊玉姫の伝承が色濃い豊玉町仁位にある和多都美(わたつみ)御子神社の祭神は前述のようにウガヤであったが、由緒(『対馬神社誌』)によれば、その鎮座地は仁位(にい)宝満山(ほうまんざん)である。実は宝満山というのはあとで述べるように北九州の大宰府(だざいふ)付近のそれが有名で、ここに玉依姫を祭る竃門(かまど)神社があって、当社は宝満宮とも呼ばれており、かつ玉依姫も宝満さまとして親しまれている。なぜ、さほど宝満山が玉依姫と結びついているかはすぐあとで玉依姫の伝承を追う時に述べるとして、今は宝満というのは玉依姫の代名詞であったという事実を認めるとすれば、和多都美御子神社の鎮座地が宝満山と呼ばれていたということは和多都美(ヒコホホデミと豊玉姫)の御子が玉依姫であったことを暗示している。
 そんな推測を補強するのが、対馬にもう一箇所ある厳原町久田道(いづはらまちくたみち)の宝満山で、ここに与良祖(よらのみおや)神社(C:右側一番下)が鎮座している。社名の与良は当地がかつて与良村と呼ばれていたことによるもので、祖(みおや)というのは古代は母親を意味したから与良祖というのは当地にある宝満山こと玉依姫の祖(みおや)である豊玉姫を意味している。まことに当社の祭神は豊玉姫で、由緒には「中古、宝満宮と号すこの宝満山は筑紫を一望する高山霊地なり。豊玉姫の神霊を斉き祭る始めなり」とあって、たとえば玉依姫(かその後裔)がこの地にやってきて、母親の豊玉姫を祭ったらしきことが由緒や神社名からもうかがい知れるのである。
 このように神社伝承を注意深くたどれば、豊玉姫は玉依姫の姉というよりは母親と認識されていたようで、だとすれば、それは『書紀』の万幡(よろずはた)豊秋津姫(とよあきつひめ)に該当する。なぜなら、神代紀下九段一書⑦に、「タカミムスヒの児(みむすめ)万幡(よろずはた)姫の児(みこ)玉依姫」とあるからだ。これを玉依姫を起点に十段(海幸山幸神話)一書①と比較すると表のようになり、大きく相違している。どちらかが創作とすれば、私はそれは十段一書①であると考えている。
 なぜなら、豊玉という同一名称を親子で呼ぶ風習が古代に見られなかったことはすでに述べたが、その上、豊玉彦・姫となると、古代の姫彦制(姉妹あるいは妻たる姫が巫女(みこ)として 祭祀をつかさどり、その兄弟あるいは夫たる彦が政治をつかさどる二元体制)を連想させるに十分で、その場合両者は兄妹あるいは夫婦がふさわしいからである。おそらく二人は夫婦であったと思われる節がある。
 すなわち、上記のように本文や一書の三つが豊玉姫の父を豊玉彦とせず、海神とわざとぼかしているのは実は二人が親子ではないことを暗示しているのではなかろうか。
 豊玉彦の正体、および二人の関係については、次頁で考察してみたい。

 

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