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4.3 播磨国(経路V)に残るスサノオ・少彦名・大己貴の足跡
●『播磨国風土記』と書紀との見事なコラボレーショ
 さて、前節に示したような経路で播磨国にやってきたスサノオ一行は、播磨国で一体どのような国造りをしたというのだろうか。神社伝承を解析する前に、まずは書紀撰上の五年ほど前の編纂とされる『播磨国風土記』から見ていこう。
『播磨国風土記』はまことに不思議な書物である。それは地理誌的色合いの濃い『出雲国風土記』と違い、記事の大半を各地の里や山川原野の名称由来に費やしている。さらに、 その由来譚( ゆ らいたん)中に、多くの神々や天皇が登場することに特徴があって、特に大己貴は伊和大神 (いわのおおかみ)や大汝(おおなむち)あるいは葦原志乎(あしはらの しこお)(葦原志乎とも表記する)等に名を変えて四十箇所以上に、天皇では品太(ほんだ)天皇(応神)がその御世とされるものも含めやはり四十箇所程度にと、両者が傑出して登場している。ここで、伊和大神が大己貴であることは、宍禾( し さわ)郡一ノ宮(現宍粟市( し そう し )一の宮町)の伊和神社が『延喜式』神名帳に「伊和坐( い わにいます)大名持御魂神社」とあることから間違いない。
 かように『播磨国風土記』は大己貴(伊和大神)の伝承にあふれているのであるが、その中でさりげなく大己貴=ニニギを主張しているように思える箇所がある(大己貴=ニニギについてはスサノオのHP3.4節や補説1で論述している)。
 例えば餝磨(しかま)郡伊和の里の条にある、「昔、大汝(おおなむち)の子の火明( ほ あかり)は、強情で行状も非常にたけだけしかった」とする一文だ。この後(あと)、大汝と火明との親子喧嘩が長々と記されていくが、その中味は無理やり地名由来譚(たん)に導くためのたわいないものであって、歴史の復元には使えない。が、ここにさりげなく示された大汝の子火明というのは見落とせない。なぜなら、書紀では火明は大己貴でなくニニギの子とされているからだ(神代紀九段本文)。一方、『播磨国風土記』は約五年後に撰進される書紀に先回りして火明を大己貴の子としているのであるから、ここに、火明を通してニニギ=大己貴を主張していることになる。
 ほかにも宍禾(しさわ)郡雲箇(うる か )の里の条に、「(伊和)大神の妻の許乃波奈佐久夜比売(このはなさくやひめ)は、その容姿が美麗(うるわ)しかった。だから宇留加という」と語っているのも見逃せない。なぜなら、木花開耶姫(このはなさくやひめ)は書紀ではニニギの妻であるからだ。すなわち、木花開耶姫を通して、『播磨国風土記』は伊和大神(=大己貴)=ニニギを書紀と共に主張していることになる。
 以上の二例が暗示する大己貴とニニギとの関係は中央の正史書紀がなければ浮かび上がってこないのであって、ここに『播磨国風土記』と書紀との、のっぴきならぬ結びつきが感じられるのである。
 ここに至り、前述の「『播磨国風土記』はまことに不思議な書物である」と記した意味がおわかりいただけたことと思う。ついでに言えば、『播磨国風土記』は書紀に先立って、 伊和大神や葦原志許乎(あしはらのしこお)が国を占めたとか、国占めを争ったというような文章を十箇所ほどに挿入しており、この点についても書紀とのコラボレーションが感じられる。
 そんな次第で、『播磨国風土記』は書紀が対外的な、特に中国向けの正史であるがゆえに書きえなかったことを補助する役目もあったのではないか、私にはそう思えてならないのである。
 
●『播磨国風土記』に登場しないスサノオと登場しない理由
 ところで、『播磨国風土記』にはもう一点、重要なメッセージが込められていることに気付く。それはスサノオのことである。書紀編纂の数年前に撰述されたとされる『播磨国風土記』には前述のように大己貴は四十箇所ほどに登場するが、不思議なことにスサノオは一切登場しない。まるで、『出雲国風土記』がスサノオのヤマタノオロチ退治に一切触れないが如く。
 その一方で、少彦名(すくなひこな)については三箇所に記載し、その全てをなぜかスクナヒコとしており、内二箇所は少日子根、他の一箇所は四文字全てを変えて小比古尼と表記している。
 さて、少彦名と少彦根(風土記では少日子根や小比古尼と表記するが、本書では便宜上、ともに少彦根と表記)が同神であることは、どちらも大己貴と対になって登場していることや、少彦根が登場する近辺の神社では少彦名として祀っていることから分かる。少彦名の表記をいじっている理由は不明ながら、三箇所に登場させているからには、そしてもし、前述のようにスサノオ=少彦名であるならば、『播磨国風土記』のどこかにスサノオがありのままに登場していてもよさそうなものであるがまったくその気配すらみせないというのは、一体どうしたことだろう。スサノオ=少彦名が成り立てば三箇所に足を踏み入れていたということになるが、だとしても、大己貴が四十箇所ほどに記されているのと比べて、あまりにも少ない。あるいは、少彦名とスサノオとは私の推測に反して全くの別人で、結局のところ、スサノオはこの地に足を踏み入れなかったということなのだろうか。
 そのあたりを、神社伝承で探ると、詳細は次項で述べるが結論から先にいえば、スサノオは確かにこの地に足を踏み入れた痕跡が数件ある。だとすれば、『播磨国風土記』はなぜ、スサノオを隠す必要があったのか、あるいは大己貴、スサノオの共同作業を大己貴、少彦根に変える必要があったのか。答は恐らく、書紀との整合性を保つためであろう。なぜなら、大己貴、スサノオとの協同作業と記せば、二人の世代差が親子程度内であることを露呈することになってしまうからだ。
 書紀は本文で二人を親子と明記しながらも(神代紀上八段)、その一書には大己貴をスサノオ六世、または七世の孫ともして、二人の間に一世紀(百年)以上もの開きがあるととぼけている。すなわち、書紀はその本文と一書とではまるで違った二人の時間差を示し、読者を困惑させているのであるが、それを書紀撰上数年前の『播磨国風土記』に実は二人は親子でしたとあっけらかんと明かしていて欲しくなかったのではあるまいか。苦心の一書を台無しにしないためにも。こう考えると、やはり、書紀と『播磨国風土記』とは裏で結びついているとしか考えざるをえないのだ。
 さて、ではスサノオ=少彦名が成り立つとすれば、その根拠を神社伝承から見つけることができるのか、以下、検討していく。
 
●播磨国におけるスサノオ・少彦名・大己貴の足跡伝承概論    
 三諸神の足跡伝承は合わせて十二箇所に残っている(図)。ここで播磨国を図のように姫路市とたつの市の境界あたりで東西に分割し、東側を地域A(播磨国中東部)、西側を地域B(播磨国西部)に分けて検討すると興味深い事実が浮かんでくる。すなわち、地域Aでは三諸神の足跡伝承計七件が、東西南北に分散しているが、地域Bでは大己貴の伝承のみ計五件が南北縦に点在している。これは三諸神が共に立ち入ったのは地域Aだけであって、地域Bには大己貴が単独で立ち入ったことを暗示する。
 大胆に推理すれば、地域Aの伝承は神代紀上八段一書Eに記載の「大己貴と少彦名とが力を合わせて心を一つに天下を経営」に相当し、地域Bの伝承は「少彦名亡(な)きあと、 大己貴独りよく巡り造る」に対応しているように思われる。
 はたして実態はどうか。まずは地域Aから検討していこう。
 
●播磨国中東部(地域A)におけるスサノオ・少彦名・大己貴の足跡
 当地域は図に示すように、スサノオ伝承が四件、少彦名と大己貴との同伴伝承が二件、少彦名単独伝承が一件と計七件の伝承がある。まず、西側のスサノオ伝承から見ていくと、姫路城の北北東約3`に白国(しらくに)神社(2)があって、白国(しらくに)は新羅(しら ぎ )なり。往昔(おうせき)広峯(ひろみね)牛頭(ごず)天王、新羅に行幸し帰朝のとき、少時この地に坐(いま)す。故に白国という」と記録されている。牛頭(ごず)天王はすぐ後でも出てくるが、周知のようにスサノオだ。またその北北東約10`に南田原(みなみたわら)與位(よい)神社(3)があってスサノオと稲田姫が祭られており、「太古諸神国土経営のときこの地に巡幸あり」と記録されている。この諸神は祭神から考えてスサノオ一族とみて間違いなかろう。
 以上二件のスサノオ伝承はいずれも市川中流域にあるが、その南北二箇所に少彦名の伝承が存在している。南(下流域)には姫路城そばの十二所神社(1)に少彦名が「この地方開拓の祖神にして長畝(のう ね )国主の神とも称す」として祀られている。
 北(上流域)に目を転じると神崎郡神河町(かみかわちよう)にある日吉( ひ よし)神社(4)の伝承に「葦原醜男(あしはらのしこお)(大己貴)が国土経営のとき、この所を埴岡(はにおか)と云った。ここに大己貴の子の建石敷 (たけいわしき)がやって来て、大己貴、少彦根と集合しこの埴岡山に宿りたまい云々」とあって、少彦名が大己貴と共に当地に足を運んだことが分かる。
 実は当地には縄文時代から弥生時代に至るまで集落が形成されていた福本遺跡(b)があり、弥生終末期のことはよく分かっていないが一度途絶えて古墳時代に復活し、その後、白鳳〜奈良時代にかけての瓦窯(かわらがま)跡(あと)が数基発掘されており、土師器(はじき)生産の盛んな土地であったことが分かっている。
『播磨国風土記』にも、「品太(ほん だ )天皇(応神)が巡幸されたとき、この岡に行宮(あんぐう)をつくり、『この地の土壌は埴(はに)ばかりだな』と 言われたので当地を埴岡と名付けた」とする埴岡地名伝承(a)が加えられている。埴土は弥生後期の墳丘墓において祭祀土器として使用された埴輪の原料となるもので、だとすれば、 スサノオ(少彦名)一行が市川を遡ってわざわざ当地に足を運んだ目的は、この埴の入手(交易)もしくは当地の支配であった可能性もなくはない。
 さて次に市川の東、加古川に目を転ずると、スサノオ一行の足跡がその東側10`ほどの南北二箇所に存在している。北から見ていくと加東市天神(てんじん)にスサノオを祭神とする一ノ宮神社(5)があり「神代に素戔鳴が天降り、地方巡見の際、当地に休憩した。その遺蹟に奉祀したのが一之宮である」とスサノオの足跡が明確に記録されている。スサノオが訪れた地名には神が含まれることが多く、当地も天神(てんじん)と神を含んでいる。
 さらに、当社南約18`の旧明石(あかし)郡、現神戸市西区神出(かんで)(ちょう)にある神出神社(6)にもスサノオ、稲田姫、大己貴のスサノオ一家が祭られており、当地でスサノオ、稲田姫が会遇したとされており、ここでも神出なる地名が伝承されている。まさに古代ではスサノオは神中の神であったのだ。
 興味深いことに、このあたり一帯は平安時代から鎌倉時代の須恵器や瓦の一大生産地であったようで、神出(かんで)浄水場拡張工事や国道175号神出バイパス建設に伴う発掘調査等で百基を越える古い窯(かま)跡(あと)や集落跡、及び粘土採掘坑が発見されており、「神出窯跡群(かん で かまあとぐん)」(d)と呼ばれている。前述の埴(はに)岡(a)となんらかの関連があるかもしれない。
 さて、以上のように地域A(播磨国中東部)にはここまで都合四件のスサノオ伝承(2、3、5、6)があったが、これらスサノオ伝承に囲まれた高砂市阿弥陀町( あ み だ ちよう)に生石(おうしこ)神社(7)があって、少彦名と大己貴が祀られている。その由緒には、「大己貴、少彦名、勅を受けて国土を経営せしとき、ここに石御殿を造りその石屑を北の方一里ばかりなる高御位山(たか み くらやま)に捨て給う」とあって、スサノオの面影濃い領域中に少彦名が割り込んで登場しているのである。
 さて、少彦根が登場した日女道(ひめじ)丘の姫路城に話を戻すと、その北北東約3`にスサノオ伝承を有する白国(しらくに)神社(2)があったが、実はそのすぐ北方約1`の広峯山に、京都八坂神社の元宮として名高い広峯神社(c)が建っている。小椋一葉氏が入手された由緒書には、「崇神天皇の御代に広峯山に神籬(ひもろぎ)を建て、素戔鳴、五十猛(いたける)を奉斎云々」(『消された覇王』)とあるが、当社は少なくとも皇極元年(642)には創建されていたことが但馬(たじま)国の関(せき)神社(養父郡関宮町)の由緒から分かる。そこには、「皇極天皇元年、西国悪疫(あくえき)流行しかば、但馬、播磨は国の中央なるによりて牛頭(ごず)天王(スサノオ)を但馬国の羽山、播磨国の広峯山に鎮祭してその厄(わざわい)の以東に及ぶことを防ぎしにはじまり、云々」とある。皇極元年といえば、仏教公伝(こうでん)からほぼ一世紀、仏教興隆の道を開いた聖徳太子没後二十年を経ているが、まだまだ人心は仏よりも神を頼っていたということが分かるのである。
 関神社創建の二年後に今度は東国の方で疫病が流行したらしく、それがヤマトへ波及するのを恐れてか、東国とヤマトとの中間付近の静岡県藤枝市岡部町三輪に神(みわ)神社が勧請されている。由緒には、「皇極天皇三年(644)四月、東国に疫病が起こり、これを鎮めるために意富太多根子(おほたたねこ)二十六代の孫三輪四位をして大神(おおみわ)神社の御分霊を祭祀させたのに始まる」とあり、ここでは大物主(大己貴)が勧請されている。このようにヤマト朝廷は国の東西で疫病が流行すると、中央(ヤマト)への波及を恐れて、スサノオや大己貴を疫病退散の神として早くから祭祀していたのである。
 当然、祭祀される神は中央のみでなく、列島各地にも名が轟き、かつ信頼が寄せられている神でなければ人心は治まるまい。
 
●播磨国西部(地域B)におけるスサノオ・少彦名・大己貴の足跡
 次いで播磨国西部であるが、ここにはスサノオは足を伸ばさなかったようでスサノオや少彦名の伝承は見当たらない。一方、大己貴単独の伝承は五件あるが、なぜか不思議なことに五件全て揖保 (いぼ)川沿いに限られている。ここに二つの疑問が生じる。一つは、なぜこの地域には大己貴が単独で現れるのか(謎一)。二つ目は、なぜそれらの伝承が揖保川沿いに限られる のか(謎二)。
 これらの疑問を以下、大己貴の個別の伝承を追いながら解いていこう。
 南方から順に見ていくと、まず、たつの市揖保町(いぼ ちよう)にある夜比良(やひら)神社(図の1)には「祭神国作(くにづくり)大己貴は国土経営にあたり、今の宍粟(しそう)郡(風土記の宍禾(しさわ)郡)を開拓、 次いで揖保川を舟で下り、揖保の里に足を留めてこの地方を開拓された。のち里人等がその神恩を感謝して当地に祭ったと伝えられる。宍粟(しそう)郡の一の宮伊(い)和(わ)神社(3)と祭神を同じくする由縁で、 同社を北方殿というに対し、当社を南方殿と称している」とある。
 ここに大己貴(伊和大神)が当地に来た目的が、宍粟郡(北方)や揖保郡(南方)の開拓であったことが確認できる。興味深いのは揖保川を舟で下りとあることで、それは大己貴が海路からではなく陸路で揖保川の上中流域の宍粟(しそう)郡にやって来て、その後、下流域に進んだことを意味する。それはここまでスサノオ(少彦名)・大己貴の二神同伴伝承を瀬戸内海側から追ってきた感覚からすると違和感があり調べてみると、揖保川の古名は宇頭(うず)川で、宇頭は渦の当て字とされ、古代より渦をなす暴れ川であったことが分かった(国土交通省のウェブ「揖保川の歴史」)。
 舟を利用した場合、下りはともかくも上りは不可能であったのだ。ならば夜比良神社の伝承も腑に落ちる。ここで、大己貴が伝承通り陸路で揖保川上中流域にやって来たとして、その経路は次節で考察する。
 次に宍粟(しそう)市山崎町にある與位(よい)神社(2)には、「伊和(いわ)大神、すなわち大国主が国土経営をされたとき、父母の神として與位大神(スサノオ)を與位山の地に、子勝大神を丸山の地に奉斎せられた のが始まりといわれ、延喜式にもはっきりと記されている」とある。これはまさに謎一(なぜこの地域には大己貴が単独で現れるのか)の解であって、それはスサノオがすでに亡くなっていたからであったのだ。 これすなわち当地が倭国大乱第二ステージ(大己貴独りよく国を巡る)に対応した国の一つであった傍証にもなりうる重要な伝承である。
 さて以降、そんな観点から伝承を見ていくと、次に、当社の北東約3`の宍粟市一宮町に延喜の制名神大社(みょうじんたいしゃ)にして古くから播磨国一の宮として崇敬を受けた伊和神社(3)がある。その由緒に は、「祭神は大己貴の神、またの名を大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)とも大国主神とも称す。(中略)国内各地を巡行、最後に播磨国を経営せんとて当地に居りて大業を終えるや御子等及び諸神を集め酒を醸し、 鹿を狩り慰労の饗宴を開き自らは国作(くにづくり)の大業(たいぎょう)終えぬ(於和(おわ))とのたまいて鎮まりませり」とある。
 由緒から伊和大神が大己貴であることは分かるが、その大己貴が当地で大業を終えて慰労の饗宴(きょうえん)を開いたとは何を意味するのか、肝心要(かなめ)のその内容が当由緒からは全く見えてこない。 が、それは幸いにして残る二社(いずれも延喜式内の古社)に伝承されている。
 まず、当社の北東約3.5`の同町能倉(のくら)にある庭田(にわた)神社(4)に、「古伝によると大国主が天日槍(あめのひぼこ)と国土経営を争い給いし時、伊和の地において最後の交渉を終えられ、大事業達成に 力を合わせられた諸神をまねきつどえて酒を醸し、山河の清庭(さにわ)の地をえらび慰労のため饗宴を為し給へり云々」(境内案内板)と記録されている。どうやら伊和神社の由緒には太字部分の記録がばっさり抜け落ち ていたようで、これこそが大己貴が慰労の饗宴(きようえん)を開いたわけと見てよかろう。
 ところで、庭田神社の由緒は当地に大己貴がやって来た目的を示す重要な伝承であるのに祭神は大己貴でも伊和大神でもなく事代主一神だ。一方、事代主は当由緒中に登場しない上に、近辺にも足跡伝承は一切 ない。この謎は「幻の皇祖神系譜」を導いた際の仮説・大己貴=事代主(2章2節文末近くの大己貴大倭王仮説)を肯定するしか解があるまい。
 さて、庭田神社とよく似た伝承が当社北方9`の同町森添にある御形(みかた)神社(5)にもあって、「葦原志挙乎(あしはらしこお)(大己貴)、天日槍(あめのひぼこ)と共に所謂国土経営のとき、今の 百千家満(おちやま)村の南東にあたる故黒志爾嵩(ここくしにたけ)(今、俗に高峰山)におられて土地を拓き蒼生(あおひとぐさ)を定め(人民を定着させ)、播磨北部および但馬(たじま)一円を統治された」と記録されて いる。
 内容的にはほぼ庭田神社の伝承と重なるが二点食い違っている。一つは、庭田神社の伝承では天日槍(あめのひぼこ)と争ったことになっているが、当社の伝承では天日槍と共に国土を経営したとしている。
 二点目は、御形神社の伝承では大己貴が当地近辺の播磨北部のみでなく但馬一円を統治したことになっているが、庭田神社の伝承にはそこまでは触れていない。
 以上二点、どちらに信がおけるかは次章(倭国大乱第二ステージ)で兵庫県北部(但馬、丹波[たんば]、丹後[たんご])の伝承解析時、大己貴、天日槍両者が登場するのでその際に明らかにしたい。
 ところで、庭田神社の伝承以降、大己貴のライバルとして突然登場してきた天日槍とは一体どういう人物であろうか。実は彼は当地の神社伝承だけでなく、『播磨国風土記』の揖保(いぼ)郡や宍禾(しさわ)郡に おいても、大己貴(伊和大神や葦原志許乎も含む)と重なるように登場する古代の重要人物であるので、少し大己貴との関係を探っておきたい。
 まず揖保郡の揖保の里(前図a)の条では、彼は韓国から渡って来て宇頭川(うずがわ)(今の揖保川(いぼがわ))下流の川口について、宿を葦原志挙乎に乞うたとされており、ここに両者の交渉があったことが 知れる。その後、彼は同図のb〜f等に登場し、揖保川流域の南北(上〜下流)をさまよっているのであるが、その目的は何か。風土記から推察すると、その裏に「鉄」が浮かび上がってくる。実は『播磨国風土記』 には「鉄を生ず」との記載が三箇所(同図の@〜B)にあって、その内の二箇所が彼の足跡と重なっているのだ。
 一つは柏野(かしわの)の里敷草(しきくさ)の村(宍粟市(しそうし)千草町(ちくさちよう))の南方十里(約5`)ばかりのところ(Aあたり)に沢あり鉄を生ずとあって、その南方の伊奈加(いなか)川(d)で 葦原志挙乎と天日槍の両者が出会ったことになっている。
 もう一つの産鉄地は御方(みかた)の里の金内(かなうち)川(B、その近辺がf)で、ここでは両者が三条(みかた)の黒葛(つづら)を足に付けて投げ合ったことになっている。この投げ合いは両者の鉄を巡る争いの 比喩であるかも知れないが、現段階では詳細不明で、後考を待つとして、上記の謎二(大己貴の単独伝承が揖保川沿いに限られる訳)の解は揖保川沿いの「鉄」資源と関係していることは間違いあるまい。
 いずれにせよ、この播磨国西部(地域B)における大己貴単独伝承の5件は次章で述べる倭国大乱第二ステージ、「国の中に未だ成らざる所をば、大己貴神、独りよく巡り造る」(神代紀上八段一書E)に対応した 伝承であるとみてよかろう。
 本節を閉じるにあたって若干補足しておくと、大己貴・少彦名両神は播磨国東側の隣国摂津国にも足を延ばしたようで両国境界近くにある神戸市北区有馬町の式内社湯泉(とうせん)神社(当節最初の図の右端中程) に「大己貴と少彦名が赤い湯に浸かって脚の傷を癒していた三羽の烏をみて有馬温泉を発見したという」故事が伝わっている。
 二神同伴で行動したのはこのあたりまでで、その後は瀬戸内海に浮かぶ淡路島や小豆(しょうど )島、さらには讃岐国や吉備国を経由して出雲の方に帰還したらしきことは前節に述べた通りである。

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