大己貴(大国主)の国造り

令和5年7月吉日更新

日本書紀と伝承が解き明かす大己貴の原像
−各地に残る倭国大乱を征した大倭王大己貴の足跡−

 出雲大社の祭神大己貴(おおなむち)は大国主とも呼ばれ、最古の歴史書『古事記』(712年)や、最古の正史『日本書紀』(720年、以下、書紀)に国造りの神として登場する。さらに、『播磨国風土記』(715年頃)や『出雲国風土記』(733年)にも国を作りかためたとか、所造天下大~(アメノシタツクラシシオオカミ)として紹介されている。
 さて、ここに大己貴が国を造ったとか、天下(あめのした)を造ったとあるのは一体何を意味するのか。それが仮に史実の反映であったとすれは一体いつ頃の出来事であったというのか。
 そんな謎を解く鍵は最古の正史・書紀に求めるしかなさそうだが、書紀が描く4世紀以前の歴史は一見矛盾だらけで、そのままでは歴史の復元には使えない。
 一方、隣国中国を見てみると、紀元前221年に斉(せい)を滅ぼし中国初の統一王朝となった秦(しん)王朝の建国史などは中国正史の一つ『史記』によりその経緯を年や四季、あるいは月の単位で知ることができる。 『史記』には「(秦の)始皇帝(しこうてい)は自分の墓に近衛兵(このえへい)三千人の人形を埋めた」とか「陵墓の地下宮殿に水銀の川や海が作られた」とあって、長い間、誇張された伝説と考えられていたが1974年に 始皇帝の兵馬俑(へいばよう)が発見され、2003年には電気探査などのハイテク技術で陵墓の地下宮殿に大量の水銀が流し込まれていたことも判明、いずれも史実であったことが確認されている。
 歴史の復元というと近年では何かと考古学に頼りがちであるが、兵馬俑をいくら眺めていても『史記』が描く秦の建国史は決して復元できないことは言うまでもない。考古学は正史の検証に使えても、 正史を描くことはできないからである。
 そこで改めて、最古の正史・書紀を見つめ直すと、一見矛盾だらけで、「机上の創作」として史家からは切り捨てられたままである。が、ここで矛盾こそ書紀編者からのメッセージとみなして、 書紀を何度も復読すると、そこには正史の片鱗らしきものがあちこちに浮かび上がってくるのが確認できる。もちろん証拠がなければそれは夢、幻と言われても仕方がないが、全国各地の神社伝承や風土記を尋ね歩き、 さらには『古事記』や考古史料の力も借りながら幻の正史を検証していくと、それは決して砂上の楼閣でないことが実感できる。
 以下、書紀をトリック満載の推理小説に対峙するがごとく読み解いていくが、果たして我々は書紀の迷路を抜け出すことができるのだろうか。まずは書紀の矛盾点をみつめながら、 その裏に秘められた書紀の本音を探ることから始めたい。
                         (文責 崎元正教

第1章 書紀から復す大己貴(大国主)本来の活躍年代
    1.1 書紀の構造と書紀成立の背景
    1.2 書紀から復す大己貴本来の活躍年代
    1.3 書紀が歴史を引き延ばしたやむにやまれぬ動機
    1.4「紀年」を復して浮かび上がるヒミコの化身


第2章 書紀神話に秘められた「幻の皇祖神系譜」
    2.1 書紀にほのめくヒミコの分身
    2.2 書紀神話に秘められた「幻の皇祖神系譜」


第3章 出雲で覇権を築いた大己貴
    3.1 大己貴、出雲に出現
    3.2 斐伊川流域における大己貴伝承
    3.3 斐伊川流域外の大己貴伝承
    3.4 大己貴の覇権拡大
    3.5 国玉として祭られた大己貴、国魂として祭られたスサノオ


第4章 スサノオ・大己貴親子の国造り−倭国大乱第一ステージ
    4.1 スサノオ・大己貴親子の国造りの概観
    4.2 出雲国と播磨国とを結ぶ経路(T〜V)に残るスサノオ・少彦名・大己貴の足跡
    4.3 播磨国(経路V)に残るスサノオ・少彦名・大己貴の足跡    
    4.4 伊予国(経路W)に残るスサノオ・少彦名・大己貴の足跡
    4.5 出雲国と越前国とを結ぶ経路(X〜Z)に残るスサノオ・少彦名・大己貴の足跡
    4.6 加賀国・能登国(経路[)に残るスサノオ・少彦名・大己貴の足跡


5章 大己貴独りよく国を巡り造る−倭国大乱第二ステージ
    5.1 大己貴が独りよく巡った国々
    5.2 ヤマトにおける大己貴の足跡

    5.3 九州(経路])にも進出した大己貴    
    5.4 近畿北西部(経路Y)からヤマト(経路\)に降臨した大己貴

6章 旧事本紀が暗示する大己貴=天火明=饒速日(にぎはやひ)
    6.1 旧事本紀のストーリーを紐解く
    6.2 旧事本紀が暗示する大己貴の後裔三氏族


7章 大己貴の奥津城(墓所)
    7.1 古代出雲氏族の奥津城
    7.2 西谷3号墳の詳細

    7.3 興味のつきない西谷3号墳
    

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