出雲大社の祭神大己貴(おおなむち)は大国主とも呼ばれ、最古の歴史書『古事記』(712年)や、最古の正史『日本書紀』(720年、以下、書紀)に国造りの神として登場する。さらに、『播磨国風土記』(715年頃)や『出雲国風土記』(733年)にも国を作りかためたとか、所造天下大~(アメノシタツクラシシオオカミ)として紹介されている。
さて、ここに大己貴が国を造ったとか、天下(あめのした)を造ったとあるのは一体何を意味するのか。それが仮に史実の反映であったとすれは一体いつ頃の出来事であったというのか。
そんな謎を解く鍵は最古の正史・書紀に求めるしかなさそうだが、書紀が描く4世紀以前の歴史は一見矛盾だらけで、そのままでは歴史の復元には使えない。
一方、隣国中国を見てみると、紀元前221年に斉(せい)を滅ぼし中国初の統一王朝となった秦(しん)王朝の建国史などは中国正史の一つ『史記』によりその経緯を年や四季、あるいは月の単位で知ることができる。
『史記』には「(秦の)始皇帝(しこうてい)は自分の墓に近衛兵(このえへい)三千人の人形を埋めた」とか「陵墓の地下宮殿に水銀の川や海が作られた」とあって、長い間、誇張された伝説と考えられていたが1974年に
始皇帝の兵馬俑(へいばよう)が発見され、2003年には電気探査などのハイテク技術で陵墓の地下宮殿に大量の水銀が流し込まれていたことも判明、いずれも史実であったことが確認されている。
歴史の復元というと近年では何かと考古学に頼りがちであるが、兵馬俑をいくら眺めていても『史記』が描く秦の建国史は決して復元できないことは言うまでもない。考古学は正史の検証に使えても、
正史を描くことはできないからである。
そこで改めて、最古の正史・書紀を見つめ直すと、一見矛盾だらけで、「机上の創作」として史家からは切り捨てられたままである。が、ここで矛盾こそ書紀編者からのメッセージとみなして、
書紀を何度も復読すると、そこには正史の片鱗らしきものがあちこちに浮かび上がってくるのが確認できる。もちろん証拠がなければそれは夢、幻と言われても仕方がないが、全国各地の神社伝承や風土記を尋ね歩き、
さらには『古事記』や考古史料の力も借りながら幻の正史を検証していくと、それは決して砂上の楼閣でないことが実感できる。
以下、書紀をトリック満載の推理小説に対峙するがごとく読み解いていくが、果たして我々は書紀の迷路を抜け出すことができるのだろうか。まずは書紀の矛盾点をみつめながら、
その裏に秘められた書紀の本音を探ることから始めたい。
(文責
崎元正教)