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2.2 書紀神話に秘められた「幻の皇祖神系譜」
●神代紀上(じょう)の核と謎
「古(いにしえ)に天地(あめつち)いまだ剖(わか)れず、陰陽分 ( め お わか)れざりしとき……」から始まる前半部分を思い切って省略し、ナギ、ナミ夫妻の国生()み 神生()みあたりからみていこう。国土に次いで海山川草木を生み終えたナギ、ナミ夫妻が次に生んだのは、アマテラスとスサノオを含む四神であった。
 四神のうち、我々日本人の始祖となるのは日の神アマテラス、及び彼女と共に天下を治(しら)すべしとも記(しる)されるスサノオの二神で、神代紀上ではそのスサノオが天上界から天下(地上界)へと天降っていくさまが、続く神代紀下ではアマテラスの孫の瓊瓊杵尊( に に ぎの みこと)が地上界に天降っていくさまが描かれている。以下、神代紀上の概要を示すが、数多く示される異伝は無視してまずは本文を追ってみると次のようになる。
Ⅰ ナギ、ナミ夫妻の子スサノオは生まれつき残忍で泣きわめき、かつ多数の人民を夭折(ようせつ)させたり、青山を枯らしたりするので、両親によって根国(ねのくに)(場所不明)に追放される。
Ⅱ その途次、スサノオはアマテラスの元に暇(いとま)乞いに訪れるが邪心を疑われウケイ(誓約)により身の潔白を証明しようとする。ウケイで男神を生んだスサノオはその後、アマテラスの田や宮に乱暴を働き、アマテラスを傷つける。怒ったアマテラスは天石窟(あまのいわ や )に身を隠し世界は闇に包まれるが、八百万(やおよろず)の神々の知恵で引き出すことに成功。乱暴を働いたスサノオは髪や手足の爪を抜かれて地上界に追放される。
Ⅲ 降臨地は出雲国簸川( ひ かわ)の川上で、スサノオは今にもヤマタノオロチに呑みこまれようとしていたアシナヅチ、テナヅチ夫妻の若き娘稲田姫を救出、やがてその娘と結婚。二人の間に大己貴(おお な むち)が誕生
 
 本文はそんなところであるが、建国史を考察する上で見逃せないのが、本文に続いて示される六つの異伝の内、最後に示される異伝(八段一書⑥)だ。ここに大己貴こそが少彦名(すくな ひこ な )と共に力を合わせ心を一つにして天下を経営した建国の、と明かされる。さらに彼は、少彦名亡き後は独り巡って国を造り、最後に出雲国に戻って葦原中国(あしはらのなかつくに)(日本の国土)を理(おさ)めたと宣言、その領域はヤマトにも及び、三諸山(みもろやま)(三輪山)に住んで大三輪神(おお み わ のかみ)とも呼ばれ、そこで後(のち)の初代天皇神武の后となるヒメタタライスズ姫をもうけたとする。
 そのイスズ姫の母の名を三島溝咋(みぞくい)姫、またの名玉櫛(たまくし)姫としながら、父は大己貴とした上で、また曰(いわ)く事代主(ことしろぬしの)神として大己貴の正体を困惑させている。大己貴と事代主との関係については本章の最後で推察するとして、以上のストーリーから系譜だけを抽出すると、 系譜図右欄に示すような天皇家の外戚(がいせき)(母方の親族)系譜ができあがる。
 どうやら、神代紀上の核は皇祖神の外戚系譜を示すことにあったようだ。ここで神武后が神武と同世代とすれば、建国の神大己貴は神武の父の世代に、スサノオは祖父の世代に該当することが分かるのである。
 
●神代紀下の核と謎
 神代紀下はアマテラスの系譜から始まり、アマテラスが主役かと思いきや、それは系譜だけで、なぜか高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)(以下タカミムスヒ)なる神が突然登場し、アマテラスをさしおいて天上界を取り仕切る。以下、ここでも数多く示される異伝は無視して本文だけでストーリーの概略を、前項のⅢに続いて追っていこう。
Ⅳ 天上界の支配者タカミムスヒは、自分の娘栲幡千千(たくはた ち ぢ )アマテラスの子オシホミミとの間に生まれた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)(以下ニニギ)を葦原中国(あしはらのなかつくに)(日本国土)の支配者とすべく、大己貴に国の譲渡を迫る。話し合いによる交渉は失敗するも、武力をちらつかせて簒奪(さんだつ)に成功し、ニニギを葦原中国に天降らせる。
Ⅴ ニニギは日向( ひ むか)(「ひゅうが」とも)の高千穂に天降って、地上界の鹿葦津姫 (かしつひめ)(木花開耶姫[このはなさくやひめ]とも)と結婚しホスソリ、 ヒコホホデミ兄弟をもうける。
Ⅵ 兄のホスソリは海幸彦(うみさちひこ)、弟のヒコホホデミは 山幸彦(やまさちひこ)ともいい、二人は互いに獲物を捕る道具を交換する。しかし、山幸彦は兄の釣り針をなくしてしまい強く叱責され、 海宮(わたつみのみや)に探しに行く。そこで、海神(わたつみ)やその娘 豊玉姫と出会い、釣り針を探しだしてもらう。
Ⅶ そこで豊玉姫を娶り、三年暮らした山幸彦は望郷の念に堪えかねて故郷に帰り、釣り針を兄に返す。が、釣り針の紛失を 頑(かたく)なに許さない兄に対し海神(わたつみ)から教示された呪文を唱え、遂に兄を降伏させる。
Ⅷ 時に、海宮で山幸彦の子を身ごもっていた豊玉姫が妹の玉依姫と共に追いかけてきて、海辺の渚(なぎさ)で竜(たつ)に化()け出産。それを見られた豊玉姫は恥じて海に帰る。この御子がウガヤフキアエズ(以下ウガヤ)で、彼は叔母の玉依姫を妃とし、四人の男子をもうける。その末子が神日本(かむやまと)イワレ彦(初代天皇)である。
 
 以上、神代紀下のストーリーの前半(天孫降臨神話[Ⅳ、Ⅴ])と後半(海幸山幸神話[Ⅵ~Ⅷ、豆知識②])は木に竹をついだように不自然なもので、そこにはヒミコや 邪馬台国(やまたいこく)の匂いはまるで感じられない。
 非現実的な記述は物語だけでなく、系譜についても同様で、前図左欄に示されるアマテラスから 初代天皇イワレ彦(神武)に至る六代の皇祖神系譜は容易に納得しうるものではない。なぜなら、前図のように神代紀上下を並び立てたとき大きな謎が浮上するからだ。
 すなわち、スサノオを起点として神武とその后ヒメタタライスズ姫の世代が三世代も合わない。しかも妻の方が三世代(一世代二十五年として約七十五年)も年上とはどういうことか。
 ここで、わがスサノオ=五男神仮説に従って、スサノオ=オシホミミとしたとしても、やはり、二世代合わない。仮に神代紀上の系譜が真とすれば、神代紀下の系譜には二、三世代の加上があるはず。「矛盾こそ書紀からのメッセージ」とすれば、木に竹を繋いだような不自然な神代紀下のストーリーはきっとどこかにその矛盾を解くカギが秘められているに違いない。
 
●書紀の分身メッセージ③(カムヤマトイワレ)ヒコホホデミ=神武天皇
 そんな目で神代紀下を何度も復読して気付くのが神武天皇について、幼少時の名は狭野尊(さののみこと)、天皇の位についてからは、 本文では神日本(かむやまと)イワレ彦としながら、その一書では別名として (神日本(かむやまと)イワレ)ヒコホホデミと何度も繰り返し叫んでいることだ。すなわち神代紀上に一度(第八段一書⑥)、下では三度(第十一段一書②、③、④) にわたってそう記している。その上、ご丁寧に、巻三の神武紀冒頭でも「神日本磐余(かむやまといわれ)彦天皇、 諱(いみな)(実名)は彦火火出見(ひこほほでみ)」と念を押している。それでも物足りなかったのか、 神武即位元年紀一月一日条にもわざわざ、「始馭天下之(はつくにしらす)天 皇(すめらみこと)を、 号(なづ)けたてまつりて神日本磐余(かむやまといわれ)彦火火出見 (ひこほほでみ)天皇ともうす」とダメを押している。実に六度にもわたって神武をヒコホホデミとしているのだ。 これは神武(イワレ彦)=ヒコホホデミとする書紀の必死の叫びでなくてなんだろう。だとすれば、系譜図右側こそが神武の本来の系譜であると書紀は念には念を入れているのである。 ならば、その本質は「神武=ニニギの子」ということになる。もちろんこれも検証が必要であるので、今、これを神武=ニニギの子仮説と呼んでおこう。
 興味深いことに、この仮説とわがスサノオ=五男神(オシホミミ他)仮説を適用すればスサノオを起点とする神武の世代と、神代紀上の核たる、神武后の世代は両者ともスサノオの孫(第三世代)として同図左の如くぴったり一致する。
 以降この復元系譜を「幻の皇祖神系譜」(復元系譜①)と呼ぶことにするが、ここで神武=ニニギの子仮説が成り立つならば、 ヒコホホデミ以降の系譜は神代紀下本来の皇祖神系譜に海幸山幸(うみさちやまさち)神話を継ぎ足したものとみることができよう(図右側)。ここで、この系譜の上下を左右に分けて見比べてみると同図左側のようになり、オシホミミとヒコホホデミ、ニニギとウガヤ、ヒコホホデミとイワレ彦たるヒコホホデミ(神武)とがそれぞれ対応している。その場合、これらの一部、あるいは全てが異名同体の可能性が浮上してくる。もちろんそれは妻側にも言えることで、例えば、木花開耶姫(このはなさくやひめ)と玉依姫とが異名同体であるか否か等は今後の重要な検討課題の一つとなる。
 ここで注意すべきはヒコホホデミで、ニニギの子のヒコホホデミ(後の神武)と神武祖父のヒコホホデミ(海幸山幸神話の山幸彦)、すなわち豊玉姫の夫としてのヒコホホデミとは別人であることだ。実は古代には偉大な祖父や曾祖父の名を受け継ぐ例が、三輪氏族の武甕槌(たけみかづち)や、新羅(しら ぎ )からの渡来人天日槍(あめのひぼこ)等に見られるので、これはさほど特異なことではなさそうだ。いずれにせよ、以降に登場するヒコホホデミは豊玉姫の夫(山幸彦)としてのヒコホホデミ、すなわち神武祖父としてのヒコホホデミの場合と二代目のヒコホホデミ(神武自身)の場合とがあるので混乱しないように頭にとどめておく必要がある。ここで、初代ヒコホホデミ、すなわち神武祖父としてのヒコホホデミは 前図より、オシホミミすなわちスサノオの異名同体とみられるのであるが、その検証は関連のHP[建国の始祖スサノオの原像]で行っている。
 それはさておき、ここで「幻の皇祖神系譜」(復元系譜①)に戻ると、神代紀上下の比較において、スサノオ=五男神仮説の一角、すなわちスサノオ=オシホミミを適用すれば、大己貴とニニギは兄弟あるいは異名同体ということになる。前述のように神代紀上では大己貴は葦原中国の支配者、一方、神代紀下ではその国を簒奪(さんだつ)した天孫が新たな支配者として天降らせたのがニニギとあって、因縁少なからぬ二神である。 そんな二神の関係を書紀は無視するかの如く一切語らないが、古事記がそれを見事に補完している。
 
●『古事記』が補完するニニギと大己貴との深い関係-その①
 古事記の背後に大己貴=ニニギのデザインがあることを読みとった哲学者がいる。それは上山春平(うえやましゅんぺい)(1921~2012)でユニークな歴史研究者 としても知られているが、特に同業の梅原猛(たけし)(1925~2019)と共に書紀の実質的な制作主体として藤原不比等(ふひと)を推察した見解には賛同者が多い。
 上山によれば、古事記の神統譜は、一方に高天原(たかまのはら)の系譜(タカミムスヒ-イザナギ-アマテラス-ニニギ)、他方に根の国の系譜(カミムスヒ-イザナミ-スサノオ -オオクニヌシ[大己貴])を設定し、この二つの系譜がアメノミナカヌシを共通の始点とし、イワレヒコ(神武)を共通の終点とする図のようなシンメトリックな構成になっているという(『神々の体系』中公新書、1972)。 この図は記紀を熟知していないとわかりづらいかもしれないが、上山は「この図の神々の縦のつながりは血によるつながりではなく、一見不明瞭な精神的なつながりによって結ばれている」とする。具体的にいえば、 根の国の神々(右側)は慕うものと慕われるもの、目をかけるものとかけられるものとの心情的な絆によって、また、高天原(たかまのはら)の神々(左側)は命令するものと従うもの という意志の絆によって結ばれていると主張する。それは哲学的な深い思索なくしては発露しがたい見解で、上山の著作にはそのあたりの難解な論理が軽妙に説明されていて大変参考になる。
 その詳細は原著をご覧いただくとして、上山はこの図の発案過程で、高天原(たかまのはら)系のニニギと根の国系のオオクニヌシ(大己貴)とは一対、すなわち、「 高天原(たかまのはら)系と根の国系それぞれからイワレ彦への統合の方向性をはらむ神としてニニギとオオクニヌシ(大己貴)がある」と看破されたのである。
 この上山説から導かれる「ニニギとオオクニヌシ(大己貴)の等価性」を裏付けるかのような伝承は各地に点在している。詳細は後述するとして、書紀撰上以前の715年頃に撰進された『播磨国風土記』にある一例を紹介すると、穴禾( し さわ)郡雲箇(うる か )の里の条に 「(伊和(いわ))大神の妻、木花開耶姫(このはなさく や ひめ)はその容姿が美麗(うるわ)しかった。だからウルカという」とする地名伝承を載せている。ここで、伊和大神が大己貴であることは『延喜式』神名帳[927年]に、「伊和坐( い わにいます)大名持(おお な もち)御魂(みたま)神社」とあって間違いない。一方、書紀によれば、木花開耶姫(このはなさく や ひめ)の夫はニニギとあるので、大己貴=ニニギが書紀以前から伝承されていたことが当風土記からも窺(うかが)える。
 
●『古事記』が補完するニニギと大己貴との深い関係-その②
 実は古事記には右記上山の哲学的な思索がなくとも、より端的に大己貴=ニニギを暗示するメッセージが埋め込まれている。それは大己貴とニニギに限り、両者が共に「地底の石根( いわね)(堅固[けんご]な石[いわ])に太い宮柱を立て、天空に千木(ちぎ)(神社の屋根に交差して 伸びている2本の板木)を高くそびえさせた宮殿」に住したと、三箇所に示されているのだ。
 その内の二箇所は好一対の物語で、一つは大己貴が三種の神宝をスサノオから奪い取って大国主神となる物語の最後にスサノオからこの宮殿に居(お)れと命じられる場面、他の一つはニニギがアマテラスから三種の神宝を授けられて葦原中津国(あしはらなかつくに)の統治者として天降る物語の最終盤にこの宮殿に坐(いま)すとする場面だ。
 ここに宮殿を通して両者の等号が暗示されているのであるが、それでも気付かない読者のために古事記は両物語の中ほどに、大己貴が天孫族の脅しに屈して、葦原中津国を天孫に譲る物語を挿入し、その際、国譲りの条件として大己貴が天孫族に要求したのが、これまたこの「地底の石(いわ)根に太い宮柱を立て、天空に千木(ちぎ)高くそびえさせた宮殿」の造営であったのだ。この宮殿が出雲大社を意味することは近年、出雲大社境内からスギの大木3本1組で直径約3㍍にもなる巨大な柱が三箇所で発見され、これをベースにすれば高さ48㍍の本殿建築が構造力学的に可能である事を大林組が発表していることからも疑いの余地はなかろう。
 以上のように古事記や『播磨国風土記』はニニギ=大己貴を強く暗示している。そして、この等式が成り立つのであれば、ニニギが九州の日向に降臨して娶った妻・木花開耶姫(このはなさくやひめ)という書紀のストーリーの裏に、大己貴が日向に出向いて木花開耶姫をめとったという姿が浮かび上がってくるのであるが、書紀にはそれを確信させる分身メッセージが以下のように埋め込まれている。
 
●書紀の分身メッセージ④アマテラス(ヒミコ)=木花開耶姫
 ここまでの書紀神話や神社伝承から、我々はヒミコがすでに五女神(①アマテラス②三女神③玉依姫)に分身されていることを知っている。実は書紀にはさらなるヒミコの一分身が、神功皇后(じんぐうこうごう)をヒミコとみなすふりをした神功皇后の巻に堂々と、かつ誰に気付かれることもなくひっそりと記載されている。
 神功皇后摂政(せっしょう)前紀三月一日条の中に、かつて自分にのり移って新羅(しら ぎ )遠征を勧告した神に、その御名(みな)を問う場面。神は七日七夜に至ってようやくその重い口を開く。「神風の伊勢国の百伝(ももづた)う度逢県(わたらいのあがた)の拆鈴(さくすず)五十鈴宮( いすずのみや)に所居()す神、 名は撞賢木(つきさか き )厳之御魂(いづのみたま)天疎(あまさかる) 向津姫(むか つ ひめ)」と。
 ここに、伊勢神宮の神アマテラスの異名が「天疎(あまさかる)向津姫(むか つ ひめ)」として示されているが、古代の知識人であれば、それが「日向の姫」を意味することは容易に見抜けたはず。なぜなら、「天疎」が、「夷(ひな)」のヒにかかる枕詞であることを知っていたからだ。なぜ、「天疎」が「夷」の枕詞になるかといえば、「夷」が天から疎遠なところにあるからで、天疎は夷(ひな)を意味するからだ。書紀は用意周到に、そういう知識を有しない読者のためにも書紀自身の中にその一例を加えている。神代紀下第九段一書①にある「天離(あまさかる)る 夷(ひな)つ女()の い渡(わた)らす迫門(せと) 石川片淵(いしかわかたふち) ……」(片田舎の女が、瀬戸を渡って[魚をとる]石川の淵よ……)とする歌だ。書紀撰上前後にすでに原形があったと考えられる万葉集にも同じような例がある。たとえば、柿本人麿は、「天離る鄙(ひな)の長道(なが ち )ゆ恋来れば明石の門()より大和島見(しまみ )ゆ」と歌っている(巻三・二五五)。
 このように、当時の知識人にとって「アマサカル」とくれば容易にヒナの「ヒ」が連想されたことだろう。さらに向津姫の「津」が助詞の「ノ」を意味することは常識であったので、「天疎」向津姫(むか つ ひめ)は当時の知識人にとって、「ヒ」向(むか)ノ姫を意味することに気付くことはさほど困難ではなかったはず。
 さてここにアマテラス=日向ノ姫が導かれたのであるが、日向の姫といえばなんといっても皇孫ニニギの妻木花開耶姫(このはなさく や ひめ)である。なぜなら、日向(ひゅうが)の地のほぼ中央にある西都(さい と )市の西都原(さい と ばる)古墳群には千数百年の時を経て現在もなおニニギと木花開耶姫の陵墓と伝承されている九州一の大古墳男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚(めさほづか)があるからだ。
 以上のようにアマテラス=木花開耶姫が分かってみれば、図のようにアマテラス(=三女神=玉依姫)を介して、玉依姫=木花開耶姫が証明されたことになる。さすれば、ニニギと木花開耶姫が結婚してヒコホホデミ(神武)をもうけたという神代紀下の物語は裏を返せば、大己貴と玉依姫ことヒミコが結婚してヒコホホデミをもうけたということになる。ここに至って我々はようやく、出雲大社が千数百年の風雪に耐えて三女神の一神、多紀理(たぎり)ことヒミコが大己貴の筑紫(九州)妻であると主張し続けている伝承の真の重みが理解できるのである。
 
●浮かび上がった大己貴とヒミコの赤い糸 -「幻の皇祖神系譜」
 ニニギ=大己貴の等号が確たるものになるにつれ、我々の眼前に立ちふさがっていた神代紀下の木に竹をつないだようななんとも不自然な系譜の謎も雲散霧消するときがやってきた。
 そこにあったオシホミミ-ニニギ-ヒコホホデミという天孫系譜は図に示すように、スサノオ-大己貴-ヒコホホデミ(神武)という本来の系譜(A)を 創造上の天孫系譜(B)に仮託した上で、ヒコホホデミを山幸彦とする海幸山幸神話(C)を付加して、本来の系譜を混乱させつつもその真意をかぎとって欲しいという書紀苦心の 仮冒(かぼう)(偽称)系譜であったのだ。換言すれば、神代紀下の天孫系譜は神代紀上の分身系譜であったということになる。
 それだけではない。書紀にはもう一点見逃してはならない重要なメッセージが秘められており、そしてそこにもまた、アマテラス=玉依姫の片鱗が垣間みられるのである。
 それは、玉依姫の母の正体であって、神代紀下九段一書⑦に、雑多な系譜に紛れて「タカミムスヒの児(みむすめ)万幡(よろずはた) 姫の児(みこ)玉依姫」として示されている。そして、その万幡姫の正式名称が同段一書①に万幡( よろずはた)豊秋津姫(とよあき つ ひめ)として示されている。これらはいずれもよほど目をこらさないと素通りしてしまいそうな 小さな記事であるが歴史復元にあたっては大きな意味をもっている。というのはこの神は、わが国最高至貴の宗祀(そうし)とされ、また天皇の皇祖ともされる 伊勢神宮の祭神アマテラスの相殿神(あいどのしん)(主祭神と同殿に相並ぶ神)として祭られているにもかかわらず、この神とアマテラスとの関係が伊勢神宮の謎の一つとされているからだ。
 そんな疑問もアマテラス=玉依姫仮説によれば一気に氷解することになる。アマテラスの傍らに寄り添うように祭られている神・万幡(よろずはた) 豊秋津姫(とよあきつひめ)はまさにアマテラスこと玉依姫の母にあたるからである。
 さて、ここに若干の疑問が残るとすれば、一般には万幡姫は栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)の異名と考えられていることだ。それはこの神が登場する神代紀下第九段本文 冒頭にオシホミミが栲幡千千姫を娶(めと)ってニニギを生んだとしながらも、その一書①や②ではオシホミミが万幡(よろづはた)豊秋津姫(とよあきつひめ)を妃としてニニギを生んだとあるからだ。
 が、この一書を注意深く復読すると、まず①では、オシホミミに万幡姫を配(あわ)せて葦原中国(あしはらのなかつくに)(日本国土)に天降らせようとしていたら、「已(すで)に」ニニギが誕生していたとある。さらに、②ではオシホミミと万幡姫二人の天降(あまくだ)り途中の「虚天」でニニギが誕生したとあり、生まれた場所にウソを暗示する虚という言葉を添えている。これらから、ニニギの母についての書紀本来の主張は本文通り栲幡千千 姫とみて間違いなかろう。
 これをこれまでの「幻の皇祖神系譜」(復元系譜①)と照らし合わせると、図のようにニニギこと大己貴の母は稲田姫であったので、稲田姫と栲幡千千(たくはた ち ぢ )姫とは異名同体ということになる。すると、神代紀上第八段本文に稲田姫の両親がアシナヅチ(脚摩(あしなづ ち ))、テナヅチ(手摩( て なづ ち ))として示されていることに注目しないわけにはいかない。
 なぜなら、大己貴の母稲田姫は○()と△()の児とされる一方、その大己貴がニニギと名を換え天降る神代紀下になるとそのニニギの母の名が栲幡千千(たくはた ち ぢ )姫として「チチ」を共有しているからだ。これは決して偶然ではなく、恐らく大己貴=ニニギを暗示する書紀の例の復元メッセージと思われる。
 一方、では万幡姫の方はどうかというと、神代紀下第九段一書⑥において、タカミムスヒの女(むすめ)・栲幡千千万幡と姫を重ねて登場させ、栲幡千千(たくはた ち ぢ )姫と万幡姫とが別人であることを示唆した上で、ついに一書⑦にいたり、「タカミムスヒの児(みむすめ)万幡姫の児(みこ)玉依姫」として万幡姫を玉依姫の母として紹介しているのだ。
 以上の知見を前述の「幻の皇祖神系譜」(復元系譜①)に反映すると次図の復元系譜②となる。
 だいたいが、もし栲幡千千姫と万幡豊秋津姫とが同体であったとしたならニニギと木花開耶姫(このはなさく や ひめ)こと玉依姫とは同父同母の兄妹婚となってしまうが、それは結婚の風習からしてまずありえない。その面からも栲幡千千姫と万幡(よろずはた)豊秋津姫(とよあき つ ひめ)とは別人とみなすべきである。その場合、ニニギと木花開耶姫、すなわち大己貴と玉依姫(アマテラス)の結婚は同父異母の兄妹婚ということになって、それは古代ではさほど珍しいことではなかったので、そんな二人が結ばれてイワレ彦(神武)が誕生するということは十分有りえたのである。
 思えば書紀で名前に尊いを意味する「貴(むち)」が用いられているのは男性では「大己貴」、女性ではアマテラスの大日孁貴(おおひるめのむち)」の二人のみ(他に道主貴(ちぬしのむち)があるがこれは 大日孁貴(おおひるめのむち)の分身三女神の別称で同神)である。これも恐らくは二人が夫婦であったとする書紀のメッセージとみてよかろう。ところで、この系譜上からは海幸山幸(うみさちやまさち)神話に登場する豊玉姫やその子ウガヤは見えないが、二人とも名をかえてこの「幻の皇祖神系譜」の中に書き込まれていることを我々は追々知ることになろう。
 それにしても、この復元系譜②をよくよくみれば、わが国初代天皇神武は大己貴と、かのヒミコ女王こと玉依姫の子ということになる。一方、神武后も母こそ違え父は共通の大己貴であってみれば、あの大和朝廷発祥の地三輪山の大神(おおみわ)神社に大己貴が鎮座しているのは、しかるべしと言わざるをえない。
 ところで、我々は「紀年」の復元により、神武の活躍(即位)年代がおよそ西暦200年頃と知っている(1章1.2節)。これは彼の父、祖父二世代が倭国大乱(桓帝(かんてい)・霊帝(れいてい)の間[146~189])の時代の人物であることを意味している。そして今、我々は「幻の皇祖神系譜」を得たのであるが、これによれば神武の父・祖父は大己貴・スサノオ親子であり、従って両者は倭国大乱を征した男王親子であって不思議はない。実は、スサノオ、大己貴親子は全国津々浦々の神社の祭神として祭られると共に、幾多の神社伝承にその足跡が語り継がれている。
 次章では、そんな足跡をたどりながら、倭国大乱の歴史を復元していくことにするが、その前に、書紀巻三の神武紀にも存在する大己貴の謎についてもみておくことにしよう。
 
●神武紀の核と謎
 神武紀の核はおよそ次の三点だ。
 まずは、大和朝廷初代天皇神武の出自(しゅつ じ )(系譜や出生地)が語られ、その出生地の日向からヤマトへの東征を目指す決意が表明される。次いでその東征径路を示し、最後に、ヤマトに到達した神武軍と在地軍とのはなばなしい戦闘による天皇家誕生の過程とその成就の様子が描かれる。
 核はそれとして、そのストーリーをもう少し細かく追っていくと、これもやはり不審と謎に満ちている。
 まず冒頭には、「神(かむ)日本(やまと)磐余彦(いわ れ ひこ)天皇、諱(いみな)(実名)は彦(ひこ)火火出見(ほほでみ)」と、神武(イワレ彦)をヒコホホデミとする重要なメッセージがあったことは前述の通りであるが、そのすぐあとに謎が続く。すなわち、神武の経歴がわずか数行で略載された直後、いかにも唐突に六合(くに)(天下)の中心(もなか)としてヤマトが示され、そこに都をつくるべく東征すべしという神武の決意が述べられるのであるが、ここに大きな不審がある。というのは、神代紀上によれば、ヤマトはすでに大己貴が宮を営(いとな)み、子(ヒメタタライスズ姫)をもうけた建国ずみの地であった。続く下では、大己貴が治めた国々は神武上祖のタカミムスヒが大己貴から力づくで簒奪(さんだつ)したことになっている。そんな国に向かうのになぜわざわざ征服を意味する東征という言葉を使う必要があるのか。
 ここに大己貴の建国対象範囲の不整合は極まった感がある。すなわち、もともと大己貴の建国範囲にヤマトは含まれていなかったのか、あるいは、タカミムスヒの簒奪はなかったのか、はたまた神武東征なるもの自体が創作なのか、そんな疑問が次々にわきあがってくるからである。が、今は結論を急がず、もう少し、神武紀全体を俯瞰( ふ かん)することにしよう。
 次に目につくのが、ヤマトに到達した神武一行の建国の過程とその成就の様子を描く中にひそむ謎だ。そこではヤマト入りを目前にした神武一行が、在地の長髄彦(ながすねひこ)軍の激しい抵抗を受け、一時退却を余儀なくされるが、結局、刃向(はむ)かった長髄彦がなぜか妹の夫饒速日(にぎはやひの)命(みこと)(以下饒速日)なるものに殺害されて、 その饒速日が神武の軍門に下り、ここにヤマト初代の神武王朝が成立したとするストーリーになっている。
 その饒速日であるが、これも唐突な登場だ。すなわち、神代紀上では大己貴あるいは事代主(ことしろぬし)(当初正体明かされず、後に大己貴の子とする)がヤマトの 征服者であることが暗示されていた。にもかかわらず、ここでは肝心要(かなめ)の大己貴が姿をみせずに、いつしか天上界より天降ってきたという 饒速日を中心とするその妻子や妻の兄(長髄彦)がヤマトを支配していたことになっている。そもそも神武が妻とするのは前述のように大己貴あるいは事代主の子ヒメタタライスズ姫であるので、この頃、大己貴の威力は まだヤマトに十分残存していたはず。その大己貴が消え去って一体どのような経緯で饒速日に置き換わったのか。いよいよ二人の関係が気にかかるわけであるが、神武紀はつゆともそれを語ろうとしない。
 このように、神紀も読み進むにつれて、神紀との関係がますます支離滅裂になっていくのであるが、ここに仮に大己貴=饒速日が成り立つのであれば、それは逆に神代・神武両紀がセットになって初期ヤマト王朝の開闢(かいびゃく)の歴史を語っていることになりはしないか。そのことに関連していそうな謎が、神武紀にもう一つある。それは神代紀上下間の不整合の一つでもあった大己貴と事代主との関係だ。
 前述のように、神武の皇后、ヒメタタライスズ姫の父について神代紀上では、大三輪神(おお み わのかみ)(大己貴)か事代主かがあいまいにされていた。それが、神武紀では一転、ヒメタタライスズ姫の父は事代主に限定され、以降、その筋書きで物語が展開されている。そうと分かっていたなら、なぜ書紀は最初からそう言わなかったのか。そもそも、神代紀上を振り返れば、大己貴が自問自答する形で、自身が大三輪神であることを紹介したのち、自身の子 としてヒメタタライスズ姫が示されており、そこではむしろ事代主(ことしろぬし)は「また曰く」の存在であった。それがなぜ、いつの間に主従が逆転してしまったのか。
 ここで私は、書紀がヒメタタライスズ姫の父を大己貴としたり、事代主とすることに対する一つの解として大己貴=事代主仮説を提唱したいのである。もちろんその場合には、事代主が大己貴の子であるとする神代紀下や神武紀等の記述と齟齬(そご)をきたすことになるので我々は二者択一をせまられることになる。
 それを承知の上で、私は神武紀に登場する大己貴、事代主、饒速日の三者に横たわる上記疑問点を解く鍵として、大己貴=事代主の等号に饒速日を加え、さらには神代紀上下二巻に横たわる系譜の矛盾を解く中で顕現してきた大己貴=ニニギを加えた大己貴=事代主=饒速日=ニニギ仮設を提唱する次第である。
 ここで、一般には大己貴は出雲の王、饒速日はヤマトの王、事代主は出雲ともヤマトとも断定しかねる不可思議な王、ニニギは日向の王というぐらいの共通認識があろうかと思うので、私はこの四者を同体と みなす仮説を以降、大己貴大倭王(だいわおう)仮説と呼ぶことにする。もちろんこれは検証を要する大胆な仮説であることはいうまでもなく、次章以下の最重要課題となることは間違いない。
 その検証は追々実施していくとして、今は四者が「玉」というキーワードで結びついていることだけを紹介しておきたい。まず大己貴であるが、その亦(また)の名が 大国(おおくにたま)、あるいは顕国(うつしくにたま)とされるほど(神代紀上八段一書⑥)、深く玉と結びついている。 次に事代主であるが、書紀にはその正体が「天事代(あめにことしろ)虚事代(そらにことしろ)玉籤入彦(たまくしいりびこ)厳之(いつ の )事代主神」(神功皇后(じんぐうこうごう)摂政前紀三月一日)として明かされている。
 一方、饒速日は書紀には伏せられているが、物部(もののべ)氏の伝承を伝える『先代旧事本紀)』(豆知識③、以下旧事本紀)に、 「天照国照彦(あまてらすくにてらすひこ)天火明(あまのほあかり)櫛玉 (くしたま)饒速日尊(にぎはやひのみこと)」として示されている。ここで事代主と饒速日両者の形容詞的部分を比較してみると、 「天事代虚事代」に対し「天照国照」、さらに「玉籤(たまくし)」に対し「櫛玉」と微妙に変化はしているが、本質は同じで「天をも地をもあまねく知り照らす尊き 」ぐらいの意味であると思われる。さらに、ニニギは書紀に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと))、すなわち玉を意味する 「瓊(けい)(美しい玉)」が重複して使用されており、これまた玉と強く結びついている。
 いずれにせよこの四者を異名同体とみなすのはかなり大胆な仮説であるので、しっかりと検証していかねばならないことはいうまでもない。一方で、古事記の信望者からは事代主は 大己貴(大国主)と神屋楯姫(かむ や たてひめ)の子であると明記されているので、同人は絶対ありえないと強く反論される向きもあろう。 しかし、批判を恐れずに試論を展開すれば、古事記は書紀を補完する目的で編纂されたものであり、右の神屋楯姫(かむ や たてひめ)の場合も書紀の 補完といえないこともないと思うのであるが、そんな書紀と古事記の関係の考察は当HPの本筋から離れる上に、少々説明を要するので関連最後のHP[日本書紀と古事記の密接な関係]に示したので興味のある方はご覧ください。

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