2.2 三女神と木花開耶姫の不思議な接点

 出雲大社を参拝された方はその境内、本殿の向かって左側に筑紫社があり、出雲大社祭神大己貴(おおなむち)(大国主とも)の九州での妻として三女神の一神、多紀理姫(たきりびめ)(田心[たこり]姫とも)が祭られていることを御存知の方も少なくなかろう。右側には本妻の須勢理(すせり)姫を祭る御向社(みむかいのやしろ)及び神話で大己貴(大国主)を救ったキサガイ姫とウムガイ姫を祭る天前社(あまさきのやしろ)の二社があって、境内社は計三社である。
 これら三社について、第八十二代出雲国造(いずもこくぞう)(出雲国の長)で明治から昭和にかけて出雲大社宮司を襲職された故千家尊統(たかむね)は、大社の古記録によれば筑紫社が常に第一に重んじられていたと『出雲大社』(学生社)に記しておられる。さらに同著によれば社殿の基礎工事や建築をみても、筑紫社のそれは他の二社と異なり、一段と丁重であったことは不可思議な事実であるとされてきたことや、出雲大社の注連縄(しめなわ)の張り方が、世の神社とは正反対に向かって左から縄を綯()いはじめ、綯()い終わりを右にするのは左側を上位とすることのあらわれであり、上記三社の摂社の位置に深く関係していると推察しておられる。
 いずれにせよ出雲大社は千数百年の風雪に耐えて三女神の一神、多紀理姫を大己貴(おおなむち)(『古事記』ではオオナムヂ)の九州妻であると主張し続けているのである。我々はその伝承を軽々しく扱うわけにはいかない。
 ところで、南九州日向の地には木花開耶姫が都万(つま)神社に祭られている。当社の記録が正史『続日本後紀』巻六、承和四年(837)条にあって、「日向国子湯郡都濃神、妻神」と並んで書かれており、仲良く官社(国から幣帛を支弁される神社)に預かっている。都濃神とは日向国一の宮都農神社の祭神大己貴であって、ここに木花開耶姫と大己貴が夫婦であったらしきことを、正史がにおわしているのである。そしてそれはなによりも、古事記と書紀の中間年に撰上された『播磨国風土記』に明確に残っている。
『播磨国風土記』において大己貴は大抵の場合伊和(いわ)大神と記されているが(伊和大神が大己貴であることは伊和神社が『延喜式』神名帳に、「伊和坐(いわにいます)大名持(おおなもち)御魂(みたま)神社」とされていることから間違いない)、宍禾(しさわ)郡雲箇(うるか)の里の条に、「(伊和)大神の妻の許乃波奈佐久夜比売(このはなさくやひめ)は、その容姿が美麗(うるわ)しかった。だから宇留加という」として語られている。(注 大己貴[大国主]と三女神とが結婚していたらしき伝承はこれ以外にも福岡県田川郡添田町(そえだまち)の地名伝承にも見られる)
 以上から、大己貴を通じて、その妻としての三女神と木花開耶姫とが結びつくのであるが、興味深いことに『播磨国風土記』は大己貴(伊和大神)の妻として木花開耶姫だけでなく、三女神の一神奥津島姫(田心( たこり)姫とも市杵島(いちきしま)姫とも)を託賀(たか)郡黒田の里の条に登場させ、「昔、宗形の大神である奥津島比売(ひめ)が伊和大神の御子をおはらみになり云々」とも記している。『播磨国風土記』は風土記の中では最も早く、『古事記』と『書紀』との中間年に完成したと考えられているが、どうも『書紀』との間に阿吽(あうん)の呼吸が感じられてならない。
 それはともかくも、ここに以上の伝承史料によって、アマテラスの化身である三女神が玉依姫であり、かつ木花開耶姫でもあるという一見不可思議な関係が導かれるのである。
 実は、玉依姫と木花開耶姫の等価性は『書紀』にも実に巧みに描かれていることを次に示したい。


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