4.3 神武紀の核と謎

 神武紀の核はおよそ次の三つだ。まずは、大和朝廷初代天皇神武の出自(しゅつじ)(系譜や出生地)が語られ、その出生地の日向からヤマトへの東征を目指す決意が表明される。次いで、その東征径路を示して、最後に、ヤマトに到達した神武一行のヤマト軍とのはなばなしい戦闘による建国の過程とその成就の様子が描かれる。
 核はそれとして、そのストーリーをもう少し細かく追っていくと、これもやはり不審と謎に満ちている。
 まず冒頭には、「神(かむ)日本(やまと)磐余彦(いわれひこ)天皇、諱(いみな)(実名)は彦火火出見(ひこほほでみ)」と神武(イワレヒコ)をヒコホホデミとする重要なメッセージがあったことは前述の通りであるが、そのすぐあとに謎が続く。すなわち、神武の経歴がわずか数行で略載された直後、いかにも唐突に、六合(くに)の中心(もなか)としてヤマトが示され、そこに都をつくるべく東征したいという神武の決意が述べられるのであるが、ここに大きな不審がある。
 というのは、神代紀上巻によれば、ヤマトはすでに大己貴(おおなむち)が宮を営(いとな)み、子(ヒメタタライスズ姫)をもうけた建国ずみの地であった。続く下巻では、大己貴が治めた国々は神武上祖のタカミムスヒが大己貴から武力によって簒奪(さんだつ)したことになっている。そんな国に向かうのになぜわざわざ征服を意味する東征という言葉を使う必要があるのか。
 ここに大己貴の建国対象範囲の不整合は極まった感がある。すなわち、もともと大己貴の建国範囲にヤマトは含まれていなかったのか、あるいは、タカミムスヒの簒奪はなかったのか、いやいや、神武東征なるもの自体が創作なのか、そんな疑問が次々にわきあがってくるからである。が、今は結論を急がず、もう少し、神武紀全体を俯瞰(ふかん)することにしよう。
 次に目につくのが、ヤマトに到達した神武一行の建国の過程とその成就の様子を描く中にひそむ謎だ。そこではヤマト入りを目前にした神武一行が、在地の長髄彦(ながすねひこ)軍の激しい抵抗を受け、一時退却を余儀なくされるが、結局は刃向(はむ)かった長髄彦がなぜか妹の夫ニギハヤヒ(饒速日命[にぎはやひのみこと])なるものに殺害されて、そのニギハヤヒが神武の軍門に下り、ここにヤマト初代の神武王朝が成立したようなストーリーになっている。
 そのニギハヤヒであるが、これも唐突な登場である。すなわち、神代紀では大己貴あるいは事代主がヤマトの征服者であることが暗示されていた。ところがここでは肝心要(かなめ)の大己貴が姿をみせず、いつしか天上界より天降ってきたというニギハヤヒを中心とするその妻子、さらには妻の兄(長髄彦[ながすねひこ])がヤマトを支配していたことになっている。そもそも神武が妻とするのは前述のように大己貴あるいは事代主の子ヒメタタライスズ姫であるので、この頃、大己貴の威力はまだヤマトに十分残存していたはずである。その大己貴が消え去って一体どのような経緯でニギハヤヒに置き換わったのか。いよいよ二人の関係が気にかかるわけであるが、神武紀はつゆともそれを語ろうとしない。
 このように、神武紀も読み進むにつれて、神代紀との関係がますます支離滅裂になっていくのであるが、ここに仮に大己貴=ニギハヤヒが成り立つのであれば、それは逆に両紀がセットになって初期ヤマト王朝の開闢(かいびゃく)の歴史を語っていることになりはしないか。
 そのことに関連していそうな謎が、神武紀にもう一つある。それは神代紀上下間の不整合の一つでもあった大己貴と事代主との関係である。
 前述のように、神武の皇后、ヒメタタライスズ姫の父について神代紀上では、大三輪神(おおみわのかみ)(大己貴)か事代主かがあいまいにされていた。それが、神武紀では一転、ヒメタタライスズ姫の父は事代主に限定され、以降、その筋書きで物語が展開されている。そうとわかっていたなら、なぜ『書紀』は最初からそう言わなかったのか。そもそも、神代紀上を振り返れば、大己貴が自問自答する形で、自身が大三輪神であることを紹介したのち、自身の子としてヒメタタライスズ姫が示されており、そこではむしろ事代主は「また曰く」の存在であった。それがなぜ、いつの間に主従が逆転してしまったのか。
 ここで私は、『書紀』がヒメタタライスズ姫の父を大己貴としたり、事代主とすることに対する一つの解として大己貴=事代主仮説を提唱したいのである。もちろんその場合には、事代主が大己貴の子であるとする神代紀下や神武紀等の記述と齟齬(そご)をきたすことになるので我々は二者択一をせまられることになる。
 それを承知の上で、私は神武紀に登場するニギハヤヒ、事代主、大己貴の三者に横たわる上の二つの疑問点を解く鍵として、大己貴=ニギハヤヒ=事代主仮説を立てることにしたい。その検証は追々実施していくとして、今は三者が「玉」というキーワードで結びついていることだけを紹介しておきたい。
 まず事代主であるが、『書紀』にはその正体が「天事代(あめにことしろ)虚事代(そらにことしろ)玉籤入彦(たまくしいりびこ)厳之(いつ の )事代主神」(神功皇后摂政前紀三月一日)として明かされている。一方、ニギハヤヒは『書紀』には伏せられているが、物部(もののべ)氏の伝承を伝える『旧事本紀(くじほんぎ)』に、「天照国照(あまてらすくにてらす)彦天火明(ひこあまのほあかり)櫛玉(くしたま)饒速日尊(にぎはやひのみこと)」として示されている。ここで両者の名の形容詞的部分を比較してみると、「天事代虚事代」に対し「天照国照」、さらに「玉籤」に対し「櫛玉」と微妙に変化はしているが、本質は同じで「天をも地をもあまねく知り照らす尊き」ぐらいの意味であると思われる(注「天事代(あめにことしろ)虚事代(そらにことしろ)」の意味は少々複雑であるが、虚(そら)を天に対する丘、事(こと)は物事、代(しろ)を知ることの転訛とみれば、「天上界地上界、すべての物事を照覧し、あらゆる物事を知る」ぐらいの意味である)。
 以上に加え大己貴の伝承解析結果を少し先回りして述べておくと、実は大己貴は玉と深く結びついている。
 いずれにせよこの三者を異名同体とみなすのはかなり大胆な仮説であるので、しっかりと検証していかねばならないことはいうまでもない。一方で、『古事記』の信望者からは事代主は大己貴(大国主)と神屋楯姫(かむやたてひめ)の子であると明記されているので、同人は絶対ありえないと強く反論される向きもあろう。しかし、批判を恐れずに試論を展開すれば、『古事記』は『書紀』を補完する目的で編纂されたものであり、上の神屋楯姫の場合もある意味『書紀』の補完といえないこともないと思うのであるが、それについては少し説明を要するので別稿のHP【日本書紀と古事記の密接な関係】に詳述した。
 さて、以上のように神代紀上下巻を経て神武紀にまたがる不整合を解く鍵の一つとして、私は大己貴=ニギハヤヒ=事代主仮説を立てたのであるが、実は大己貴の等号はそれだけでは不完全で、ここにもう一神、神代紀下の中心人物ニニギを加える必要があることが、記紀の紙背から読み取れるのである。
 そのことは前節の中ほどで示唆しておいたのであるが、実はここまでほとんど引用してこなかった『古事記』の背後に大己貴=ニニギの陰を読み取った哲学者にしてユニークな歴史学者でもあった上山春平[うえやましゅんぺい](平成二十四年鬼門に入られた)の鋭い指摘があるので、節を改めそれを見ておきたい。

 

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