1.3 九州本土における豊玉姫の伝承

 ここまで、ヒコホホデミがスサノオの別称であったことがよくわかってみれば、その妻豊玉姫は出雲の稲田姫の異称と考えられなくもないがはたしてどうだろうか。
 私にはそのような一案はどうも抵抗を覚えてならない。それは出雲国の伝承解析で見たように、稲田姫は出雲の在地性が非常に強い女性であったからだ。そこには稲田姫の両親や誕生地にちなむ伝承が生き生きと根付いていたではないか。それに引き換え豊玉姫の面影は全くといってよいほど見られなかった。
 全国的に見ても豊玉姫の伝承は数えるほどしかないが、九州にかたまっており、それ以外といえば四国の香川県に一箇所見られる程度である。その九州でも特に朝鮮半島にほど近い対馬に半分以上集中しており、それはあとで見るとして、九州島では南北にわかれて存在している。
 まず、南の方からみていくと、南九州市知覧町に豊玉姫神社があり、豊玉姫の遺蹟と伝えている。その南東20`ほどの薩摩半島南端にある枚聞(ひらきき)神社(鹿児島県指宿(いぶすき)市)にも、神代紀第十段の海幸山幸(うみさちやまさち)神話の竜宮界を彷彿させるような伝承がある。さらに気になるのは、この豊玉姫神社から北北東47`ほどのところにヒコホホデミと豊玉姫を祭る鹿児島神宮があって、その300bほど北東の石体(せきたい)神社の由緒に、「当社の位置は御祭神ヒコホホデミと豊玉姫が都として高千穂宮を経営された正殿のあったところで、そのまま社殿として祭ったもので、鹿児島神宮の起こりでもあります」とあることだ(社前には高千穂宮跡の石碑が建っている)。
 加えて、この石体神社と鹿児島神宮との間に現在、卑弥呼神社が建っており、ヒミコが国分(こく ぶ )・隼人(はや と )地区に居城をもっていたとの由来に基づき建立された神社であるとされている。ここで後述の結果を少し先回りしていえば、玉依姫ことヒミコはヒコホホデミことスサノオと豊玉姫との娘と思われ(詳細は1.6節)、さすれば、当地が一時的にしろヒコホホデミと豊玉姫との居城であって、またかつてヒミコ(玉依姫)も右記の伝承通りにこのあたりに居城をもっていたとすれば南九州におけるこれらの伝承を一笑に付すわけにはいかなくなる。
 一つの可能性として、海神族の始祖的存在であるヒコホホデミと豊玉姫は北九州を本拠としながらも彼らの一族が暮らす南九州のこのあたりにも一度や二度は交易を兼ねて一定期間滞在したということがあったかもしれない。この点は今後の検討課題としたい。
 南九州では、日向に属する宮崎県宮崎市青島町の青島神社や、日南市宮浦の鵜戸(うど)神宮にもヒコホホデミと豊玉姫が海 宮(わたつみのみや)から帰還したという伝承が伝わっている。が、両社の近辺に豊玉姫の具体的な足跡が見出せないことからこのあたりの帰還伝承は史実とは無縁のような気がする。ただ、この日向に景行天皇があれほど熱心にヒコホホデミの足跡を捜し求めたということは、ある時期、ヒコホホデミことスサノオがこのあたりで暮らしていた、あるいは死後葬られたという可能性については、今後の検討課題として保持しておかねばなるまい。
 次に北九州に目を転じると、福岡県京都(みやこ)郡苅田町(かん だ まち)の宇原(うはら)神社に、ヒコホホデミと豊玉姫の海 宮(わたつみのみや)からの帰還伝承が伝わっている。この伝承については当社の所在地と合わせて、いくつかの考証すべき点があるので、対馬における豊玉姫の伝承を見てから再度触れることにしよう。
 さて、豊玉姫の伝承が俄然色濃くなるのは古代の伊都(いと)国があった前原市(まえばる し )周辺だ。前原市で唯一の延喜式内社である志登(しと)神社には、豊玉姫が主祭神として祭られており、故原田大六によれば、「口碑によるとこの社地は、ヒコホホデミが海神国(わたつみのくに)へ行って先に帰ってきたのを、その妃(きさき)豊玉姫があとを追ってここに上陸した霊地として、豊玉姫を祭っているのだといっている。神社の南側、水田の間に岩鏡という巨石があるが、これは豊玉姫がその石の上に立って髪をけずったと伝えている」(『実在した神話』学生社)とされている。
 興味深いのはこの社のほぼ真西15`、玄界灘中に約二百十人が暮らす直径1`ほどの姫島(糸島市志摩姫島( し ま ひめしま))の伝承だ。島の南端には姫島神社があって、豊玉姫とウガヤが祭られているが、その対面となる北端に豊玉姫が生まれたという「産(うそ)の穴」が語り継がれている。
 これら古代の伊都国圏内にある二つの伝承は南九州の竜宮伝承とは一味違い、人間臭さが漂っているのであるが、そういう観点からこの古代の伊都国周辺を見てみると、もう一社注目しておきたい神社がある。
 それは古代の太宰府防衛の第一線基地たる怡土城( い と じょう)があった高祖(たか す )山の麓にある高祖(たか す )神社だ。現在はヒコホホデミが主祭神として祭られているが、『日本三代実録』(901年)には、元慶(がんぎょう)元年(877年)九月二十五日、「正六位高礒比賣(ひめ)神に従五位下を授く」と記されている。これは高礒比売こそが高祖神社の本来の祭神であることを暗示している。ここに高礒の読みは「たかいそ」あるいは「こういそ」であろうから、高祖もかつて「たかそ」あるいは「こうそ」と読まれていた可能性が高い。後者だとすればそれは、「皇祖」にも通じるので、三代実録の高磯の姫とは「皇祖」(神武天皇祖父ヒコホホデミ)の姫「豊玉姫」であった可能性が浮上してくる。このことについては豊玉姫の正体をもう少し詳しく考察する過程で再度触れたい。
 いずれにしろ古代の伊都国前原市周辺には豊玉姫の面影がちらほらと漂っていることは間違いない。だとすれば、出雲方面から朝鮮半島への往来をはたそうとしたヒコホホデミことスサノオにとって、その経路中にある伊都国に、彼の野望を手助けしてくれるような女王が存在していたのであれば、周辺の地理に明るいよきパートナーとして手を携えたと仮定することはさほど突拍子もない試案ではあるまい。ついそんな想像をかきたてたくなるのは対馬には豊玉姫とヒコホホデミの色濃い伝承がいくつも残っているからである。

 

目次
前頁 次頁

inserted by FC2 system