1.3 第三のメッセージ(神功皇后摂政前紀)

神代紀上で三女神に変身させられたアマテラスであるが、神代紀下に登場する二神もアマテラスの異名であることが神功皇后摂政前紀に示されている。

   ヒミコのまたの名として仮託されたアマテラスであるが、そのアマテラスを通して『書紀』は我々にとてつもなく重要なメッセージを送ってくれている.

 それは、こともあろうか、ヒミコとみなすふりをした神功皇后摂政前紀三月一日条の中にある。かつて自分にのりうつって新羅(しらぎ)遠征を勧告した神に、その御名(みな)を問う場面。神は七日七夜にいたってようやくその重い口を開く。
「神風の伊勢国の百伝う(ももづたう)度逢県(わたらいのあがた)の拆鈴(さくすず)五十鈴宮( いすずのみや)に所居()す神、名は撞賢木厳之御魂(つきさかきいづのみたま)天疎(あまさかる)向津姫(むかつひめ)」と。
 すなわち、ここに伊勢神宮のアマテラスのもう一つの異名が堂々と天疎(あまさかる)向津姫(むかつひめ)として記されている。
 一見これは、日向(ひゆうが)の姫とは判読できないかもしれないが、天疎(あまさかる)というのが「夷(ひな)」のヒにかかる枕詞であることに気付けば、「天疎」が「ヒ(=日)」を暗示していることから「天疎」向津姫といいうのは「ヒ」向津姫を暗示していることがわかる。
 なぜ、「天疎」が「夷」の枕詞になるのかといえば、「夷」が天から疎遠なところにあるからで、天疎は夷(ひな)を意味するからだ。
『書紀』は用意周到に、そういう知識を有しない読者のためにも『書紀』自身の中にその一例を加えている。
 神代紀(じんだいき)下第九段一書①にある次の歌だ。

「天離(あまさかる)る 夷(ひな)つ女()の い渡(わた)らす迫門(せと) 石川片淵(いしかわかたふち) 片淵に 網張り渡し 目()ろ寄()しに 寄し寄り来ね 石川片淵」
(片田舎の女が、瀬戸を渡って[魚をとる]石川の淵よ。その淵に網を張り渡し、網の目を引き寄せるように寄っておいで、石川片淵よ)

『書紀』撰上前後にすでに原形があったと考えられる万葉集にも同じような例がある。たとえば、柿本人麿は、「天離る鄙(ひな)の長道(なが ち )ゆ恋来れば明石の門()より大和(やまと)島見(しまみ)ゆ」(巻三・二五五)と歌っている。
 このように、当時の知識人にとって「アマサカル」とくれば容易にヒナの「ヒ」が連想されたことだろう。
 さらに「津」というのが助詞の「ノ」を意味することを知っていれば、「天疎」向津姫(むか つ ひめ)は当時の知識人にとってそれは「ヒ」向(むか)「ノ」姫を意味することに気付くことはさほど困難ではなかったはず。
 すなわちここにアマテラス=日向ノ姫が導かれたのであるが、日向の姫といえば、なんといっても皇孫ニニギの妻木花開耶姫(このはなさくやひめ)及び神武の母玉依姫である。
 以上で、ヒミコの化身としてアマテラスを含めた六女神(アマテラス、三女神、木花開耶姫(このはなさくやひめ)、玉依姫)が出揃った。

 さて、ヒミコに戻ろう。『書紀』が一見、神功皇后をヒミコと見誤ったように描いているのとは裏腹に、その紙背のあちこちにメッセージが張り巡らされていたのだ。
  すなわち右図のように、まず、①万物生成の神ナギ、ナミの子としてヒミコを「大日孁貴(おおひるめのむち)」なる造語によって位置づけた直後に、そのまたの名はアマテラスであると告げることによりヒミコをアマテラスに仮託したことを宣言し、次に②仮託したアマテラスをもってスサノオとの間にウケイなる儀式を通じて三女神に変化させ、一方で、ヒミコや『魏志』の名を巧みに記(しる)す神功皇后紀には、仮託したアマテラスのもう一つの異名を「天疎向津姫」であると告げることによって、③アマテラスが日向の姫すなわち木花開耶姫及び玉依姫とわかるように配慮しているのである。
 我々は①からはヒミコ=大日孁貴=アマテラスを、②からはアマテラス=三女神を知ることができるが、これに③を加えて、ヒミコ(大日孁貴)=アマテラス=三女神=木花開耶姫=玉依姫が導かれる。
 
 さてこれらヒミコの化身として『書紀』に記された六女神(アマテラス=三女神=木花開耶姫=玉依姫)が異名同体であるとみる私見は、前節(1.2)で述べたスサノオ=五男仮説とともに現段階ではいずれも仮説に過ぎない。当然のことながら、仮説は検証されなければならない。
 スサノオ=五男仮説の検証は大変重要で重い課題であるので、別のHP(建国の祖スサノオの真実)に述べるとして、ここではヒミコの化身六女神が異名同体であることを示す幾つかの徴証を次節で示すとしよう。

 

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