日本建国史  −『日本書紀』は知っていた−

平成18年01月吉日開設
令和5年7月吉日更新

ヤマトタケルは武内宿禰(たけうちのすくね)の若き姿

『日本書紀』は数々の暗号に託して、日本武尊=若き日の武内宿禰、及び、その背後にある「幻の皇統系譜」を懸命に叫んでいる。それは果して史実か幻か?
答を求めて、各地に残る伝承や考古史料を尋ね歩けば、次々と驚きの結果が。
かの有名な稲荷山古墳出土の鉄剣系譜も書紀の叫びに見事に呼応していた。

★日本武(尊)は明治前半以前はヤマトタケ(のみこと)と読まれていたし、そう読むべきであるが、本HPでは無用な混乱を避けるため一部を除き[ヤマトタケル]で通す。おそらく本HPを読み進めるにつれて、どちらの読みが正しいか、おのずと了解されるであろう。なお、本HPは拙著『ヤマトタケるに秘められた古代史』(けやき出版)の要約版というべきものである。(文責 崎元正教
注1:書名や下記表題でタケルのルを平仮名にしているのは本来不要という思いを込めたもの
注2:武内宿禰を全くご存知ない方はまずこの頁をご覧下さい。

1.『日本書紀』の不思議なメッセージ
2.『書紀』が隠した「幻の皇統系譜」
3.伝承史料による「幻の皇統系譜」の証明
4.考古史料による「幻の皇統系譜」の証明
5.ヤマトタケるに秘められた古代史 
  【補注】


1.『日本書紀』の不思議なメッセージ

 景行紀(『書紀』が描く景行天皇の時代)には、短命と長寿、英雄と脇役という対照的な2人のヤマトの「武」が日本列島の東西に旅だつ様子が描かれている。
 1人は、熊襲征伐や東夷征討に国内を東奔西走し、ヤマトへの帰還を目前にして齢30で夭折した古代の英雄、ヤマトタケル。『書紀』では日本「武」と記される。
 もう1人は、景行25年、北陸及び東方諸国を巡察し、その後、成務(せいむ)朝に大臣となり、神功(じんぐう)皇后とともに九州、新羅遠征、その後、応神朝を経て仁徳朝まで生き抜いたとされる、偉大なる脇役、ヤマトの「武」、タケウチノスクネである。『書紀』では「武」内宿禰と記される。
 さてこの2人、不思議なことに、図ったように交互に記されているのである(表)。
 ここに3つの不審点が浮かび上がってくる。
(1)なぜ、2人は交互に記されるのか?
(2)なぜ、それまでなんら活躍らしい活躍もしていない武内宿禰が、突然、国の棟梁に任命されるのか(51年条)。
(3)なぜ、その記事に続いて、10年も前に没したはずの日本武尊の草薙剣(くさなぎのつるぎ)や妃・子息が突然紹介されるのか。

 これは一体どうしたことか? ヤマト「武」と武内宿禰とは表裏一体?

 さらに、念を押すかの如く、武内宿禰は、「武内」宿禰(すくね)ではなく、「武」内宿禰であると、3ヶ所の歌謡で暴露している。例えば、仁徳紀には武内宿禰に対して、「たまきはる 内の朝臣(あそ) 汝()こそは 世の遠人(とおひと) 汝こそは 国の長人(ながひと)…」とする歌がある。これにより、内朝臣(うちのあそ=内宿禰)が一種の尊称であることが分かるので、武内宿禰の固有部分は「武(たけ)」一字と了解できる。それは彼の弟が甘美(うまし)内宿禰として見えていることからも確認できる。すなわち武内宿禰は畿外の人からすればヤマトの「武」であったと『書紀』は告げているのである。

 その上、2人の誕生年が同じであることを匂わす巧妙な暗号がある。
 ヤマトタケルの誕生年は景行紀27年に16歳とあるので景行12年(昔流の数え年換算)と読み取れる。
 一方、武内宿禰は景行3年条に、父武雄心命(たけおごころのみこと)が9年間紀国(きのくに)に留まって生ませた子とあり、単純に足し合わせると景行12年となる。
 『書紀』は懸命に何かを訴えている!

 さらに『書紀』を慎重に読み解くと、ヤマトタケル=武内宿禰=成務天皇=仲哀(ちゅうあい)天皇を暗示する記事があちこちに埋め込まれているのに気付く。
 まず、成務紀には成務天皇が武内宿禰と同日生れとある。その一方で、通常の天皇には必ず記される妻や子、さらには即位後の都が示されていない。治世中の業績だけをさらりと記したあと、ヤマトタケルの子の仲哀を皇太子に任命し、崩じたとしている。その上、ワカタラシヒコという御名の一部であるタラシヒコというのは単に天皇を意味する称号であることが、『隋書』東夷伝倭国条から知られている。
 すなわちワカタラシヒコは妻子や都がなく、さらに御名においてさえも単にお若い天皇という意味であってその実体が示されていないのである。
 以上は成務の架空性、及び、成務=武内宿禰を暗示している。

 その跡を継ぐ仲哀は、30歳で夭折したヤマトタケルと入れ替るかのように、31歳で皇太子になったと仲哀紀冒頭にある。さらにそこには、通常、天皇には記されない身長が、わざわざ10尺(『書紀』が書かれていた頃の唐尺であれば、約3メートル、周尺としても、約2メートル)の異常な大男として記されているが、景行紀をひもとけば、ヤマトタケルも1丈(=10尺)とされていることに気付く。その上、「タラシナカツヒコ」という名前自体が、成務同様「中継ぎの天皇」と無実体である。
 これらは仲哀=ヤマトタケルを暗示している。(ただし、仲哀はこの暗示以外に、ある実在の人物の影も反映されているように思える。詳細は下記の【補注】(2)に示す)

 このように『書紀』編者は景行紀から仁徳紀にかけて、注意深く舞台を切り替えながら、時には成務や仲哀という影武者をも登場させ、その一方で、ヤマトタケル=武内宿禰=成務=仲哀の暗号をあちこちに発しているのである。すなわち、これら四人の実体は、二人で一人のヤマトタケこと武内宿禰ただ一人に収斂されていく。

【コーヒーブレーク】 記紀対比から知れるヤマトタケル=成務

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2.『書紀』が隠した「幻の皇統系譜」

  ヤマトタケルの実体と思われる武内宿禰の系譜を『書紀』から描くとどうなるか。孝元紀(こうげん き )と景行紀にヒントがある。

[孝元紀七年条] ヒントA
 七年春二月二日、(孝元天皇は)ウツシコメを立てて皇后とされた。后(きさき)は二男一女を生まれた。第一を大彦命(おおひこのみこと)という。第二をワカヤマトネコヒコオオヒヒ天皇(開化)という。第三を倭迹迹姫(やまとととひめ)という。妃(きさき)のイカガシコメは彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んだ。(中略)彦太忍信は武内宿禰の祖父である。 (注 ここに登場するイカガシコメは孝元崩御後、開化天皇の皇后となり崇神を生んだと開化紀六年条にある)

[景行紀三年条] ヒントB
 三年春二月一日、(景行天皇は)紀伊国(きのくに)に行幸(ぎょうこう)されて、諸々の神々をお祭りしようとされたが、占(うらな)ってみると吉と出なかった。そこで行幸を中止された。屋主忍男(やぬしおしお)武雄心命を遣(つか)わして祭らせた。武雄心は阿備(あび)の柏原にいて、神々を祭った。そこに九年住まれた。紀直(きのあたい)の先祖莵道彦(うぢひこ)の娘影姫(かげひめ)を娶(めと)って、武内宿禰を生ませた。

 以上の両ヒントより武内宿禰は孝元の曾孫と分かる(図)。

 ここで、『書紀』表向きの皇統系譜を左側に示したが、左右を見比べて、景行紀に武内宿禰を生ませたとある武雄心が景行より二世代年長(ならば景行朝には米寿に近いはず)で父となり得たという不自然に気が付く。その上、成務紀には武内宿禰自身も成務と同日生まれとあって、同じ二世代の乖離がある。これは一体どうしたことか。                               

 よくよく『書紀』に目を凝らすと、武内宿禰と行動を共にした息長足姫(おきながたらしひめ)(神功皇后)についても、同じ二世代の不自然なズレがあることに気が付く。次の記事である。  

[神功皇后摂政前紀条] ヒントC
 息長足姫(神功皇后)は、ワカヤマトネコヒコオオヒヒ天皇(開化)の曾孫(【補注】
(3))、息長宿禰(おきながのすくね)王の女(むすめ)なり。母をカツラギノタカヌカヒメともうす。
(注 ここで息長(おきなが)という氏族名の『書紀』原文は気長であるが本稿では現在一般的な息長で表記している)

 ここに神功皇后は孝元天皇の子である開化天皇の曾孫(ひまご)とあるが、これを図にしてみると、なんと夫とされる仲哀天皇の二世代上になっているではないか。
 一世代の平均を二五年としても、妻は夫より少なくとも五〇歳ほど年長のはずである。しからば、応神は父仲哀がたとえ一五歳の時の子としてもそのとき母神功皇后は六五歳になっていよう。とっくに閉経しているはずであり、出産はありえない。

 今、表向きの皇統系譜の右と左に、誰でも異常と分かる二世代のズレが顔をのぞかせた。これらをヒントに『書紀』が本来伝えようとした皇統系譜を復元してみるとどうなるか。

 『書紀』の不思議なメッセージから得られたヤマトタケル=武内宿禰=成務=仲哀と、系譜のヒントA〜Cとを足し合わせると武内宿禰の系譜は次のごとくになる。
     

 ここに『書紀』が紙背に隠した「幻の皇統系譜」があぶり絵のごとく姿を現した。これを従来の記紀系譜と比べると、両者は大きく違っている。
 記紀系譜では万世一系的に結ばれている父子の系譜は「幻の皇統系譜」では、垂仁と景行間で断絶している。が、両者は同祖母イカガシコメを介して従兄弟であるので血はつながっている。また孝元からみれば、景行は崇神と従兄弟であり、やはり血はつながっている。もちろんここで、景行とは2人で1人のヤマトタケの父武雄心であることは言うまでもない。
  果してこれは、史実か幻か? それこそが史実であると結論づけるためには、以下の課題を克服せねばならない。

@景行天皇=武雄心命の証明(課題A)
Aヤマトタケル=武内宿禰の証明(課題B)
B崇神(すじん)から応神までは4世代、すなわち、従来の記紀系譜は2世代加上されていることの証明(課題C)。

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3.伝承史料による「幻の皇統系譜」の証明

『書紀』を片手に、各地に眠る神社伝承や『風土記』を尋ね歩くと、それこそが史実であると主張する証拠が次々と見つかる。

@景行天皇=武雄心命の証明(課題A)
 『書紀』は景行天皇が熊襲征伐のために九州に向かったとし、大分県竹田市周辺での戦闘を描いている。景行天皇=武雄心命であるならば、この景行伝承の色濃い場所に、その実名(武雄心)のカケラぐらいは残っているに違いない(景行という漢風の呼び名は『書紀』撰上時にはなかったが、書写段階で取り入れられたもの。それは奈良時代後半で、今ではすっかり漢風の呼び名が定着し、本来の実名は忘れ去られているようである。ここで調査対象はあくまで実名の名残でなければならない)。
 そこで竹田市周辺の調査におもむいた。すると推定通りに、竹田市の周辺に、計五社の健男社が見つかった(図)。祭神はいずれも健男霜凝日子命(たけおしもこりひこのみこと)あるいは健男霜凝日子大神であるが、これは自然神としてあった農業の神、霜凝神(しもこりのかみ)(霜をとかす神の意)に、後からやってきた勇猛な武雄心(タケオコリとも読め語感とイメージが重なり健男霜凝となったのであろう)の勇姿が民衆に強く残った結果、祭られたものに違いない。図からも分かるように竹田市周辺部には多くの景行天皇を祭る神社(○)があるが、それらは健男社と相補うように分布していることも興味深い。


  一方、『書紀』は黙して語らないが、風土記や神社伝承を尋ねると九州北西部にも景行天皇の足跡が濃く残っている。『肥前国風土記』には佐賀県の武雄市を取り囲むように22ヶ所に景行天皇の足跡がある。この武雄市の中心には神秘的な形状をした御船山があり、その中腹に武雄神社が建っており、武雄心命が主祭神として、武内宿禰と共に祭られている。すなわちここにも実名の名残がしっかりと存在しているのだ。
  また、武雄神社から北西約六kmのところに武内町という名称が残っていて、そこには武内神社が建っている。
  さらに、全国的にも珍しい、武内宿禰の母、山下影姫が武雄神社から北北東約三kmの朝日町黒尾に黒尾明神として祭られている(いずれも右図に場所を示す。武雄神社の由緒記には同神社がある御船山内に武内宿禰の子、平群木兎宿禰の下宮もあるとあったが、こちらの方はついに見つけることができなかった)。
  これほど多くの伝承を残す武雄市周辺の記述を『書紀』はなぜ避けたのか。ずばり推理すれば、そうしなければ、景行紀で苦心さんたん隠し通している景行天皇=武雄心命が暴かれてしまうからである。ここを詳しく描けば、そう、その名もずばりの武雄市を避けて通るというわけにはいかないからである。
 『書紀』のこの沈黙も景行天皇=武雄心命の傍証の一つとしてよいだろう。

  実は『古事記』の方では、武雄心は消されており、記紀ともに景行天皇の実体を隠すのに腐心しているのである。

【コーヒーブレーク】景行天皇巡幸地に残る景行=武雄心の痕跡

Aヤマトタケル=武内宿禰の証明(課題B)
 ヤマトタケル=武内宿禰であるからには、まずはヤマトタケル早世の架空性を証明せねばならない。それは『書紀』自身がヤマトタケルの白鳥陵には遺骸がなかったと正直に告白していることからもうかがえるのであるが、それを証するかのように、ヤマトタケル東征後の活躍が2社の神社に伝承されている。

 1社は静岡県御殿場市の二岡(にのおか)神社(図中a)で、「日本武尊が東夷征討の後帰還し、国司に命じて……」と、明確にヤマトタケルの無事生還をしるしている。他の1社は、石川県河北郡津幡町加賀爪(かがつめ)にある白鳥神社(図中b)で「日本武尊、東夷征討の後この国に到る時に、国人、尊の軍に馳せ加わりて東夷征討の偉業を賀す、加賀の名義ここに始まりて、……」とある。

 後者の日本武尊は、棟梁になって以降のヤマトタケル、すなわち武内宿禰とみなしうる傍証が存する。それは、この地を通過する経路の前後に武内宿禰の足跡伝承(F、G)があること、及びこの地を取り囲むように武内宿禰の子の若子宿禰(わくごのすくね)の子や孫ら3名が次々に国造(くにのみやつこ)に任命されているのである。

注:上図はあくまでも武内宿禰となって以降のヤマトタケ(内宿禰)の足跡である。若き日のヤマトタケの東国巡視の足跡伝承は別紙に示した。

 以上課題Bの間接的な証拠以外に、より直接的な伝承もある。四国に目を向けると、記紀がヤマトタケルの子と伝える武卵王(たけかいごのみこ)の後裔、讃岐の綾君(あやのきみ)が香川県丸亀市の神野神社に、誉田別命(応神)、武内宿禰大臣、神功皇后他を祭っている。なんと、ヤマトタケルの子孫が、ヤマトタケルを祭らずに、武内宿禰の一家(「幻の皇統系譜」を参照されたし)を祭っているのである。
 九州では、ヤマトタケルの御子と伝わる仲哀天皇を祭る福岡県香椎宮(かしいぐう)の宮司は、ヤマトタケルの後裔ではなく、武内宿禰の後裔が任じられ、連綿と香椎宮を奉祀している。『香椎宮御由緒』には、武内宿禰の後裔紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)の子孫が大宮司に任じられ都より赴任したとあり、その通りに、近くには武内屋敷が現存しており、子孫が現在も住されている。

 また、武内宿禰の伝承を伝える『因幡国風土記』逸文や『帝王編年記』(鎌倉時代末の歴史書)にも「昔、武内宿禰は東夷を平定……」とあり、武内宿禰=ヤマトタケルの傍証が残っているのである。

【コーヒーブレーク】 風土記から消された? 武内宿禰

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4.考古史料による「幻の皇統系譜」の証明

「幻の皇統系譜」は考古史料により一層明確に検証できる。
埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた大彦からヲワケの臣(おみ)(雄略天皇の臣下)まで8世代の系譜は、記紀系譜では大彦から雄略まで10世代と合わないが、「幻の皇統系譜」ではどんぴしゃり8世代である(図)。ここに、B記紀系譜は2世代加上の証明(課題C)が見事に考古史料によって実証されていると言えよう。

 また、この鉄剣銘文には雄略天皇の臣下として仕えたヲワケの臣が、「世々、杖刀人(じょうとうじん)の首(おさ=首長)となり、奉事し来りて今に至る」とある。この「世々」の意味は深く重い。それは、雄略天皇の数世代前から関東地方はすでにヤマトに従属していたことが示されているからである。すなわち、雄略朝よりわずか4世代前のヤマトタケル(=武内宿禰)の東国征討伝承が架空ではないことをこの2文字が証明しているのである。

 それは、同じ雄略天皇とされる倭王武()が478年に、宋に提出した上表文に、「昔から、先祖代々自ら甲冑をまとって、山や川をふみこえ、ふみわたり、身をやすめるいとまもなく戦って参りました……」(『宋書』「倭国(わこく)伝」)として、示されていることからも確認できる。ヤマトタケル東国征討伝承は夢物語ではないのである。

 
 さらに、大和に眠る巨大古墳は、どの考古学者も現景行陵(渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳)が現垂仁陵(宝来山(ほうらいさん)古墳)より古いと編年しており、考古学者は首をひねっているが、「幻の皇統系譜」であれば、なんら矛盾はない。
 ここで改めて「幻の皇統系譜」を細かく検討してみれば、景行が垂仁に先立つことは容易に推定できる(下図)。
       
 なぜなら、母方(イカガシコメ)からすれば確かに2人は同世代(孫)ではあるが、父方(孝元天皇)からすれば開化を間にはさむ崇神と彦太忍信命を間にはさむ景行は同世代(孫)で、垂仁(曾孫)より1世代先行しているから。よって、景行は本来、崇神と垂仁の間の世代であった可能性が極めて高いのである。
 ここに再び、記紀の表向き(中国向け?)の皇統系譜は見事に打ち消され、『書紀』メッセージの解読からなる「幻の皇統系譜」が史実に一歩近づく。従来の記紀系譜にいつまでも固執していれば、この編年の謎は永遠に解くことはできず、ひいては記紀の諸伝を否定してしまうことにつながるのである。
  蛇足ながら、現景行陵(渋谷向山古墳)のすぐ北側に景行天皇=武雄心を証明するかのように延喜式内社の水口神社(『大和国神社神名帳』によれば祭神は大水口宿禰)が祭られていることを付け加えておきたい。実は氏族系譜伝承によれば武雄心の母は大水口宿禰の妹大水口姫の娘稲津姫である(詳細は拙著148〜150頁)。古代は妻問い婚で、母方が子を育てたとされており、従って武雄心は幼少の頃、大水口宿禰一族の下で育った可能性が高い。それは、滋賀県水口町にも延喜式内社の水口神社があって大水口宿禰が祭られているが本殿に隣接して境内社としてはひときわ立派な武雄神社(祭神は春日神に入れ替っているが、本来は武雄心に違いない)が鎮座していることからもうかがえる。このように、今なお、あちこちに景行天皇=武雄心の傍証が残っているのである。

注:ここでご注意いただきたいのは、「幻の皇統系譜」では一見垂仁天皇の系統が断絶しているように見えることである。が、それは必ずしも正しくない。というのは垂仁天皇の後裔(七世孫振姫)が二十六代継体天皇の母であるとの伝承があり、それが史実であれば継体天皇は現皇室と確実につながっているので、垂仁系統はそこで復活したことになるからだ。垂仁天皇と継体天皇とのこのつながりの確認・検証は私にとって、今後の重要な検討課題の一つである。

【コーヒーブレーク】垂仁朝と景行朝の重なりを暗示する『住吉大社神代記』  

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5.ヤマトタケるに秘められた古代史

 「幻の皇統系譜」こそが史実であるとすれば、官撰正史たる『書紀』がそれを紙背に隠した動機がきっと存在するに違いない。最後にそれを推察しておきたい。
 『書紀』が初代神武から16代仁徳天皇までの歴史をそれ以降のほぼ史実とされる歴史に比べ数倍引き伸ばしていることはよく知られている。その理由は大国・唐に対して、対等の国であることをアピールすべく、「できるだけ古くかつ立派にみせたい」という強い思いの結果であったろうことは容易に想像がつく。なぜなら、歴史が古いということは国民の誇りであるし、まして、対等とみなしたい中国にはすでに紀元前になった司馬遷の『史記』を始め世界一立派な歴史書が鎮座していたからだ。そこで、本来は弥生末期から古墳時代揺籃期(2世紀後半から3世紀初頭)の出来事であったと推定される初代神武天皇の即位を紀元前660年1月1日とした。いや、せざるを得なかったというべきであろう。
 この作為の結果、本来四世紀後半の出来事であった神功皇后のいわゆる「三韓征伐」が丁度ヒミコの邪馬台国の時代に該当した。そこで、『書紀』の編者は『魏志』倭人伝を巧みに引用しながら、神功皇后こそが邪馬台国のヒミコ女王であるとみなすふりをした。で、このとき困ったのは本来の大王である武内宿禰の取り扱いであった。彼らはやむにやまれず、武内宿禰を「幻の皇統系譜」に秘めて後考を待ったのである。
 拙論を通じて、ヤマトタケルの年代に違和感をお持ちの方が多いかもしれない。それは景行紀が西暦71〜130年に当てられていることに起因しよう。が、仁徳紀以前の年代は数倍引き伸ばされており、景行朝の本来の年代は実在が確実な天皇から逆算すれば350〜375年辺りとなる(下図。詳細は拙著188〜195頁)。そうであれば、その子のヤマトタケルは4世紀後半の人物ということになり、その頃、応神天皇と共に朝鮮半島に干渉したとされる武内宿禰と年代的にもピタリと重なるのである。

 

  ヤマトタケルは夭折後に伊勢国の能褒野(のぼの)に埋葬されたが、すぐに白鳥となって飛び立ちヤマトの琴弾原(ことひきのはら)に留まったと『書紀』は記す。この地は古くから武内宿禰の墓と伝承されている御所市の室大墓(墳長238b)の東、わずか2`弱の所にある。飛来した白鳥から見て半径5`以内に、200b以上の大王墓は室大墓以外には存在しない。これは恐らく、ヤマトタケルの墓の本来の場所を暗示したものであろう(下図飛来地@)。

 



  さて、場所を告げたからには次はその御名である。白鳥は再び飛び立って河内の古市村(ふるいちのむら)に留まった(飛来地A)。この地は古代ヤマトの中心地三輪山周辺と河内を結ぶ竹内街道に通じており、さらに双方の行き来には竹内峠を越えていかねばならなかった。恐らく古市村といえば『書紀』編纂当時の人々の脳裡には竹内という言葉がすぐに浮かんだことであろう。
 このようにして、ヤマトタケルの本来の墓とその名を伝えた白鳥は「遂に高く翔びて天に上りぬ」と『書紀』は記している。何もかも『書紀』は知っていたようである。

 以上、紙数の関係で概略しか示せなかったが、詳細な史料批判は、拙著『ヤマトタケるに秘められた古代史』(けやき出版)で実施した。
 蛇足ながら、拙著を上梓した目的とその意義を述べておきたい。
 邪馬台国卑弥呼の3世紀と倭の五王の5世紀の間はミッシングリングさながら、「謎の世紀」あるいは「空白の4世紀」と呼ばれて久しい。一方、この間に、日本の建国(列島の統一)が成ったことは、478年宋に差し出された倭王武の上表文に「先祖代々自ら甲冑をまとって……東方55国、西方66国、さらに海北の95国を平定しました」とあることや、3世紀後半〜4世紀にかけてヤマトの大王たちの巨大な古墳が、奈良盆地周辺にいくつも眠っていることからも確認できる。
 倭王武の上表文から列島の統一を果たしたのは倭王の先祖であることは間違いなく、その候補を記紀に求めるならば景行天皇やその皇子ヤマトタケル、及び神功皇后や武内宿禰であって、彼らの史実性の研究は日本建国史の探求上必要不可欠。
 されど、戦後の日本史学は津田説の影響で応神天皇以前の記紀に強いアレルギーがあり、ヤマトタケルや武内宿禰らの伝承をおとぎ話の世界に封印している。
 その結果、日本の建国史は現在も暗闇の中に放置されたままである。

 拙著はそんな中、原点に戻って、ヤマトタケルと武内宿禰の本来の姿を日本最古の官撰正史『日本書紀』を中心に復元し、その復元案を他の伝承史料、すなわち約6千社に及ぶ神社伝承、古代18氏族の系譜伝承、『風土記』、『先代旧事本紀』、『新撰姓氏録』等の伝承史料、さらには考古史料を尋ね歩き検証したものである(本HPから、その一端を感じとってもらえれば幸いです)。
 
 本HPの目的は、ひとりでも多くの方に、『日本書紀』がその紙背に秘めて懸命に叫び続けてきた日本建国の歴史を知っていただくことです。
 その点において、私見に共感いただけるならば、自由にリンクを貼って知識を共有してもらえれば嬉しい限りです。

【関連リンク先】
   日本建国史の復元       
     建国の祖神スサノオの原像
     大己貴(大国主)の国造り
     日本書紀に秘められたヒミコと皇室の深い関係
     「国造本紀」が語る建国史

   日本書紀と古事記の密接な関係

【補注】………より詳しく論じたい方へ
(1)日本武尊の読みについて
 日本武(尊)は今ではヤマトタケル(のみこと)と訓まれているが、明治前半以前はヤマトタケと訓まれていた事が、國學院大學中村啓信名誉教授(元古事記学会会長)の「ヤマトタケと訓むべき論」(『國學院雑誌』第八八巻第六号所収)に詳しく論じられている。概略すると
「『日本武』(『書紀』の表記、『古事記』では『倭建』)の訓はかつてはいずれもヤマト『タケ』であったが、幕末から明治にかけて刊行された本居宣長門人の伴信友が『比古婆衣』(ひこばえ)で、「『古事記』の『倭建』の『建』は、『書紀』では『武』とか『梟帥』と書かれ、その『梟帥』には『タケル』なる訓注があるゆえ、『建』『武』は『タケル』でよい」として以降、それが定説となった。
 しかし、『書紀』は『武』と『梟帥』の使い方を明確に区別しており、『武』は猛勇の士にあてられ、『梟帥』は蕃族、朝敵の表現に用いられている。従って尊号として『建』『武』をタケルとする読みは成り立ち得ない。改めて、『武』の読みを明治以前の『書紀』『古事記』の知られる限りの諸写本にあたって確認したところ、すべて『タケ』である。『倭建』『日本武』は『ヤマトタケ』と読むべきである」
 氏の意を汲んで卑近な例で述べると、アメリカやイギリスで日本人「Japanese」を卑しめて「Jap」(ジャップ)と呼ぶことがあるが、「タケ」と「タケル」はそれぐらいの大きな差が存する。従って、「ヤマトタケル」なる訓みは成り立ちようがないと思える。
 また、早稲田大学の故水野祐名誉教授も『日本古代王朝史論各説 下』(早稲田大学出版部刊)で「建」・「武」は人名の場合「タケ」と読むのが一般的であるからとし、「タケ」と読んでおられる。
 以上お二人の論述に加え、私は拙著をもって「タケ」とするものであるが、読者の混乱を防ぐため拙著表題を「ヤマトタケる……」とした。「ル」はいずれ消え去るべきという主張をも込めて「る」とした次第である。(詳細は拙著21〜24頁)   戻る   

(2)仲哀天皇について
 仲哀天皇については本HPでは日本武尊や武内宿禰の影武者としているが、少し言葉を足しておきたい。私は仲哀天皇には実在のモデルがいて、それは武内宿禰の子石川宿禰と考えている。すなわち、仲哀天皇は応神天皇の父であるという観点からは二人で一人のヤマト武の影武者のままでよいが、石川宿禰の姿(熊襲征伐途路での急死)も重ねて描かれているというのが本来の拙見である。その理由や根拠等詳細は拙著(116〜119頁)に記した。   戻る  

(3)ヒントCについて
 神功皇后摂政前紀に「息長足姫尊(神功皇后)は、ワカヤマトネコヒコオオヒヒ(開化)天皇の曾孫、息長宿禰王の女(むすめ)なり。母を葛城高額姫ともうす」とある。ここで、曾孫が息長宿禰にかかるとみなす方がいるかもしれないが、漢籍の書法では、「息長宿禰王の女」にかかる。問題は『書紀』が漢籍の書法を守っているかどうかであるが、『書紀』を調査したところ、同様の文章が四例ほど見つかりいずれも書法通りに記されていた。本文の解釈で問題はない(詳細は拙著資料2[336〜338頁])。  
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(4)その他
 本拙論では紙幅の関係で課題A〜Cの証明に家系譜や実年代面からの考証を省略したが、それらに興味をお持ちの方は拙著第一部第三章二節「古代氏族系譜伝承からの考証」(128〜188頁)、同三節「ヤマト王朝の復元系譜と年代論(まとめ)」(188〜195頁)をご覧下さい。

 本HPの詳細を検討したい方、活字で読みたい方はお近くの書店やネット通販(楽天ブックスアマゾン等)で拙著をお求めできます。ちなみに拙著の目次を以下に示します。

・『ヤマトタケるに秘められた古代史』(けやき出版)目次
     
第一部 二人で一人のヤマトタケる
 第一章 『書紀』の不思議なメッセージ
 第二章 『書紀』が隠したヤマト王朝系譜と年代の復元
 第三章 記紀以外の文献史料による復元系譜の補強と考証
     ・ 神社伝承からの考証
     ・ 古代氏族系譜伝承からの考証
     ・ ヤマト王朝の復元系譜と年代論(まとめ)
 第四章 考古史料による復元系譜と年代論の検証
     ・ 復元系譜とピタリ一致の稲荷山鉄剣系譜
     ・ 隅田八幡鏡銘文が物語る系譜と年代
     ・ 石上神宮所属の七支刀の真実
     ・ 畿内大古墳が物語る系譜と年代
 第五章 ヤマトタケるの足跡と陵墓
     ・ 東国に残るヤマトタケるの足跡
     ・ 西国に残るヤマトタケるの足跡
     ・ ヤマトタケるの陵墓

第二部 邪馬台国と卑弥呼へのアプローチ
 第一章 邪馬台国いずこ
     ・ 『魏志倭人伝』の解釈
     ・ 女王国への道
     ・ その他の国々
 第二章 卑弥呼考
     ・ 卑弥呼を求めて
     ・ 卑弥呼の墓

第三部 日本古代史の復元


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日本建国史の復元(総目次)

(C)Masanori Sakimoto 2006  図表等の無断転載はご遠慮下さい

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